脳内に「私」はいない?

 養老孟司氏による「<わたし>はどこにあるのかーガザニガ脳科学講義」(マイケル・ガザニガ、紀伊国屋書店)についての書評(9月14日付けの毎日新聞朝刊)が、還暦以後のテーマである「自我希薄化」の観点から気になった。

 もし意識が脳から生じる機能であるなら物質的な基盤があるはずで、それなら個人の行為といえども、物理化学の法則で決定されているのではないか。


 脳は並列分散処理をしている。つまりそこはだれか舵取りの主体がいるわけではない。いくつもの異なる機能が並列して走っている。あるのは、そうした処理の規則である。最終的な決定権をもつ「だれか」、つまりホムンクルスが脳の中にいるわけではない。


 脳の中に最高司令長官はいない。同時並行で進行している諸事態はいかにして統御されているのか。

 そもそも並列分散処理とはなにか。ウィキペディアをのぞいてみると。

 並列分散処理とは、複数の分散された処理ユニットが同時並行的に情報処理を行うこと。また、そうした情報処理の見方によって人間の認知プロセスの解明を目指す研究アプローチ。

 並列分散処理は、人間の知性を実現させている脳神経系における情報処理の仕組みを見直すことで、脳の情報処理の特徴である、複数の処理ユニット(=神経細胞)が同時並行的に働いていることに注目した研究者グループによって研究が始められた。具体的な研究手法は、数学的なモデル構成や、仮想的な人工神経細胞を組み合わせたネットワークによるコンピュータシミュレーションである。

 コンピュータをモデルとする直列集中処理モデルにおいては、人間の認知現象をデジタルな記号処理によって説明しようとする。一方、脳神経系をモデルとする並列分散処理モデルでは、情報をアナログなまま処理するため、記号の存在を仮定する必要がない。こうした点に注目し、言語の使用など記号処理を伴う高次の認知プロセスのモデルには直列集中処理モデルが、顔の識別など記号処理を伴わない低次の認知プロセスのモデルには並列分散処理モデルが適しているという主張もなされる。


 なんとなくわかったような、わからないような…

 養老氏の書評は続く。

 左脳はたとえば自分のしたことについて、事後的に説明をいわばでっちあげる。

 水を飲もうと思って手を出すとき、「水を飲もうと思ったから、手を出した」という。でも脳を計測していると、「水を飲もうと思う」以前に、脳は水を飲む方に向かって動き出していることがわかる。これは70年代から実験的に知られていたことである。

 この解釈はなかなかむずかしい。でもとにかく、「水を飲もうと思って手を出すことにした」という主体が脳で見つかっているわけではない。


 意図する前に意図する方向に体が動き出している…はあ、なんじゃそれ?意図を自覚する前の段階で、体は意図を先取りしているというわけなのか。


 疑問を解くためには、「現代欧米の脳科学の到達点を知るために大変参考になる」(養老)この本を読むしかなさそうだ。