203高地、旅順湾見えず

夏休みを利用して、大連・旅順に3泊4日で旅行に行った。

 旅順へは大連からの一日ツアーを申し込んだ。東鶏冠山堡塁→203高地→水師営→旅順博物館→白玉山のコースだ。

大連から車で広い高速道路を走り、2時間弱で旅順に到着した。203高地はその名の通り標高は200メートル。かつて日本軍が六万の死傷者を出し、攻略まで4か月を要した要塞だが、今や車でのぼれば、すぐに頂上に到達した。203高地の激戦は、身を隠す場所もない禿山を日本軍兵士が駆け上り、ロシア軍の機銃掃射でバタバタと倒れていく場面が映画などで有名だ。しかし、今の203高地は樹木に覆われ、禿山の面影はない。

日本軍が203高地を奪取した直後、乃木にかわり総指揮をとった児玉源太郎満州軍総参謀長と、頂上に達した将校とのやり取りを司馬遼太郎は以下のように書いている。

―そこから旅順港は見えるか。
という児玉(源太郎・満州軍総参謀長)の有名なことばが、電線を通じて西南角の頂上にいる観測将校に伝わったのは、このときであった。

―見えます。まる見えであります。

という旨の観測将校の返事がきこえたとき児玉は軍艦砲撃を決意した。砲兵陣地は、山頂の観測将校が指示するままに照準をあわせて送り出せばよい。

                       「坂の上の雲 五」(文春文庫)

 もし110年前の児玉が頂上の私に同じ問いを発していたら、こう答えただろう。

―見えません。まったく見えません。

 そう、この日は小雨交じりの悪天候で、大気は霧に覆われ白濁し、旅順港はまったく見えなかった。残念至極、日ごろの行いを猛省した。

この児玉の決意に対し、豊島少将(陽蔵、乃木軍攻城砲兵司令官)は「軍艦からの報復攻撃で山頂の陣地が破壊される」として児玉の指示に反対、三日間かけて砲台の周りを鉄板で囲んでから軍艦攻撃をするべきだと進言した。

「そんなことはいくさが終わってからやれ」
と児玉は声をひくくしていったが、じつは飛び上がって怒鳴りつけたいほどの衝動をおさえかねていた。

「命令」

と、児玉は声をあらためた。

そして、203高地越しにロシア艦隊への砲撃が始まった。

 その命中精度は、百発百中であったといっていいだろう。

 湾内にすわりこんでいた軍艦のうち、まず戦艦ポルターワの艦上に落下しその甲板をつらぬき、弾薬庫において爆発し、大火災をおこしつつ沈み始めた。

 数日のうちに四隻の戦艦、二隻の巡洋艦その他十数隻の小艦艇を撃沈もしくは破壊し、さらに湾内にある造船所を粉砕した。

 持参した「坂の上の雲」の文庫で、このくだりを203高地頂上で拾い読みする。なんとも、ぜいたくな読書である。

なんとか目をこらして白い闇を凝視していると、想像していたよりずっと先に海面がかすかに見えた。旅順湾だ。それにしても、かなりの距離だ。

標的を目視できない砲手が、頂上からの指示だけで、この遠距離をものともせず山越しに百発百中の確率で湾上の艦船に命中させることができたのだろうか。100年以上前の観測の精密さと大砲の精度に素人としては驚くしかない。

 頂上には、「璽霊山(にれいさん)」と大書された大きな碑が建っていた。璽霊山は、乃木司令官が203高地にちなみ戦死者を悼んで自作の漢詩命名したといわれている。中国人の若い女性ガイドが「これは中国に昔からあった地名です」と説明していたのには脱力してしまった。

 旅順にある日露戦争の戦跡には、日本語の説明文もあり、それに何より、戦跡が新中国になってもこわされずに良く残っているものだと思った。戦争の直接の当事者が日露であり中国ではなかったことも影響しているのかもしれない。

ただ、日露戦争は現地の住民にとっては、自分たちの街を勢力下におこうとする外国軍同士が自分たちの街で勝手に大規模な戦争をして、勝った、負けたと大騒ぎしていた、ともいえる。

 たとえは適切ではないかもしれないが、能登半島の領有をめぐり中露が100年前に戦争して中国が勝利して、その戦跡に中国人の観光客が押しかけているようなものであろうか。それを眺める石川県民はどのように感じるだろうか。突拍子もない想像ではあるが、ふとそんな問いが頭をよぎった。

 旅行記、続きます。