世界はモノの総和ではない、「論考」3

本日は、「論考」の二行目が対象。

1.1 The world is the totality of facts, not of things.


世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。


 野矢先生による解説を要約してみる。

 机、郵便ポスト、自動車、猫…世界はモノたちで満ちている。しかし、世界はモノたちの総体ではない。なぜなら、ここには「赤い」も「寝ている」もないので、「赤いポスト」も「寝ている猫」も存在しないことになる。つまり、ポストだけ、猫だけなどの「モノ」だけをかき集めても世界にはならない。

 それならば、「赤い」や「寝ている」などの性質も集めて「モノと性質の総体」を作ってみる。しかし、これでもまだ不足だ。例えば「机の上にコップがある」といったモノ同士の関係が不可欠だからだ。


 ここでいうモノとは、猫一般ではなく、この猫、あの猫といった個々の猫をさすので、モノを「個体」という語で表現したい。
さて話を元に戻すと、関係を加えて、世界=「個体、性質、関係の総体」となるかというと、そうではない。


 単純なモデルを考えてみる。

 机があり、それが茶色であり、その机の上に本がある。その本は赤い色だ。これだけがすべての世界があるとする。ここには、個体、性質、関係がそろっている。要素にすれば、{机、本、茶、赤、上}となる。

 これでは、机が赤くて本が茶色かもしれない。あるいは本の上に机があるかもしれない。さらに赤の上に机があるかもしれない。つまり、事実は、単に個体、性質、関係の寄せ集めとしては規定できないのである。事実を構成している要素として、個体や性質や関係といった項を取りだし、そこから事実を組み立てていこうとしても、どうにもならない。かたや本があり、かたや赤さがあったとしても、それだけでは赤い本があることは出てこないのである。

つまり、われわれはいきなり事実から始めねばならない。

 うーん、「単純モデル」を使って、構成要素の加算では「世界」を成立させることは不可能との説明がちょっとわかりづらい。もともとカテゴリーが違う個体、性質、関係を、あたかも同一カテゴリーに属するABCのように並列にすること自体に無理があるのではないか。


 野矢氏は、このあとこう続ける。

 われわれはただ物や性質に出会うのではない。性質をもった物たちに、つまり事実に出会っているのである。われわれの世界では個体なしの性質それ自体に出会うことなどありえない。同様に、いっさいの性質をもたない個体それ自体に出会うことも、ありえない。


 性質なき個体も個体なき性質もナンセンスであり、個体と性質は必ずや組になって、それゆえひとつの事実としてのみ、現われる。

 かくして「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」。それは、個体、性質、関係といった項の総体ではない。


 この説明ならば理解できる。「単純モデル」での説明が、むしろ理解を複雑にさせているように思う。これで、2行目が終了。ゴールは、気の遠くなるような山のかなたにある。

 ちなみに、「論考」は「1」、「1.1」、「1.12」…とつづいている。一応、「1.1」や「1.2」は「1」に対するコメントであり、「1.12」は「1.1」に対するコメントになっている。しかし、野矢氏によると、これはある程度の目安であって、厳密ではないそうだ。

 野矢解説では、上記の次は「2」の解説に入る。解説で触れられていない「1」から気になった項目を引用しておく。

1.11  The world is determined by the facts, and by their being all the facts.

世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。

1.13 The facts in logical space are the world.

 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。

1.2 The world divides into facts.

 世界は諸事実へと分解される。


 まるで、詩だ。
…なんて感想を述べたくなるが、野矢先生は、こう警告する。

 「論考」という著作は妖しい光を放っている。読む者を射抜き、立ちすくませ、うっとりさせる力を擁している。それはおそらくすばらしいことなのではあろうが、危険でもある。うっとりしながら哲学をすることはできない。「論考」の真価は、冷静に、慎重に、熟練したメスさばきで示されねばならない。