新井白石の天皇観について触れてみたい。
新井白石(1657~1725)は、武士、朱子学者、政治家という3つの顔を持っていた。武士の家に生まれたが、不運もあり二度の浪人生活も経験。儒教を個人教授していた甲府藩主が6代将軍家宣になったことから人生が激変して、直接、将軍側近として幕政に直接関与する権力を得た。
その白石は日本の通史ともいえる史論『読史余論』を書いている。
冒頭は「本朝天下ノ大勢、九変シテ武家ノ代トナリ、武家ノ代マタ五変シテ、当代ニ及ブ」。本朝(朝廷)権力の変化は藤原良房の摂政就任(一変)から変質が始まり、南北朝分立(九変)で「天下の大勢」は武家に移ったという。摂関政治、院政、鎌倉幕府成立、北条執権政治…今の日本史の教科書とほぼ同じ歴史区分だ。
「尊氏より下は、朝家はただ虚器を擁せられしままにて、天下はまったく武家の世とはなりたる也」。足利尊氏以降、朝廷は「虚器(空っぽの器)」を持っているだけだと指摘する。
天皇が主権者となった明治時代でも、天皇は大臣の署名がなければ権力は実行されず、「虚器」性は継続していた。政治的行為を法的に否定されている象徴天皇制ではいわずもがなだ。白石が記した「虚器」の射程は長く伸びている。
それでは朝廷は不要かというと、白石は古代王朝の祭祀を伝える存在として重要であり、「「(将軍は)当時(=現在)は天子より下、三公(太政大臣・左大臣・右大臣)・親王より上にたたせ給う御事也」(『折りたく柴の記』)と、「天子>将軍>大臣」として天皇は将軍より格上だとする。さらに、「北朝はもとこれ武家のためにたてられぬれば、武家の代の栄をも衰をも、ともにせさせ給ふべき御事」(『折りたく柴の記』)として、北朝系天皇を武家の「共主」と呼び、武家政権と朝廷との関係を「運命共同体」と名付けている。
ここで注意する点は、白石は天皇を「天から降りてきた神の子孫」だと思っていない点だ。『古事通』では「神とは人也、我が国の俗、凡そ其の尊ぶ所の人を称して加美という」。つまり、尊敬される人が「カミ」と呼ばれる。つまり「神は人なり」と断言している。「あの世」ではなく「この世」だけを対象にする朱子学者の面目躍如たるところだ。
白石は、天皇を軽視したとして明治時代の天皇主義者に「国賊」呼ばわりされているが、天皇家の長男以外を出家させる慣習が跡継ぎ不足を招くして、新たな宮家(閑院宮家)の設立を提案して実現させた。その後、後継者がいなくなり皇統断絶の危機が来た時、これを救ったのが閑院宮家だった。今の天皇家もこの宮家の直系にあたる。
その意味では、将軍が「真の君主」であり、天皇は補佐的な「ジュニアパートナー」と位置付けていた白石が、天皇制存続に貢献したといえる。
今回の皇室典範改正をめぐっては、史実とフィクションの混同、明治初期の「作られた伝統」に対する無知が目立つ。歴史学者たちは、幅広い層が実のある議論をできるように、もっと学知の提供をすべきではないか。そうした社会的貢献も含めて、学者は職業として成立しているはずだ。