「踏み絵」?板切れじゃん

 (「踏み絵」について)板切れにキリストだかマリアだか知らないが、その種の像を描いて、それを踏めという。私なら踏む。だってただの板切れだからである。ただの板切れを踏む、踏まない、そんなことにこだわるやつは、皆の迷惑だ。狭い島国なんだから、おたがいに住みにくくなるだろうが。

 アメリカみたいに広い国なら、踏み絵を踏まないことにこだわって生きても、国土に十分の余裕がある。メイフラワー号で上陸した人たちだって、むろん踏み絵なんか絶対に踏まない人たちだったろう。

 こういう人たちの場合には、要するに主義主張が行動を制する。つまり基本的には意識がすべてを管理する。(踏み絵を踏むと)主義主張に従う、つまり行動は意識に従うという大原則が壊れてしまう。

 欧米とはそういう人が多い社会である。おかげでフロイトは「無意識を発見」しなければならなかった。無意識の発見なんていったって、そもそも無意識の方が先でしょうが。身体は無意識で、その身体の一部が脳で、その脳から意識が発生するんですからね。

 絶対者に向き合わない。それが日本人だと外国人のインテリがいう。日本の世間で生きていれば「世間の考え方はどうか」さえ追っていれば済む。それが変わったら、自分の意見も変えればいい。世間の考えがどうせ変わるんだという経験を積めば、さらに楽な方法がわかる。それは自分の意見をハナから持たないことである。

「日本人と宗教」(養老孟司、「考える人・特集はじめて読む聖書」所収)

 相変わらずの養老節。

 意識至上主義への反発には同意するが、「厳格な一神教」対「ゆるい多神教」というステレオタイプの対立図式をちょっと鵜呑みにしすぎている感もあり。

 また「世間教」の国でも、以前、御真影なるものがあり、「踏む」どころか、ある人物の写真を見ることすらはばかられた時代があった。画像の神聖化というのは、洋の東西を問わずおこる現象であり、欧米と日本で決定的に違っているわけではない。一方、「自分教」といわれる国々でも、「人間は個性的な考えを持たねばならない」ということをみんなが思っていることで「自分教」が成立しているわけで、これも「世間」の一種である。

 養老流の日本比較論は、「居酒屋の話芸」としては十分に成立しているし、考えさせる契機にはなるが、それ以上ではない気がする。