「終戦の詔勅」考

 8月15日。現在、どのくらいの日本人が、この日を「特別な日」として受け止めているのか。判断がつかない。


「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の部分だけが有名な昭和天皇の「終戦詔勅」全文を読んでみた。

詔勅の中で、天皇ポツダム宣言を受諾した理由としてあげているのが下記の3点。


「戦局必ずしも好転せず」
「世界の大勢、我に利あらず」
「敵は新たに残虐なる爆弾を使用…なお交戦を継続せむか終にわが民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却すべし」

 
 要約すれば、「国民一体となり一生懸命戦ったが、状況が自分たちに味方しなかった。加えて敵が原爆を使用し大量破壊を始めたので、このままでは日本人だけでなく、人類文明自体も破壊されてしまうので(無条件降伏を)受け入れた」ということ。

 しばしば指摘されるが、ここには「敗北」、「敗戦」の言葉はなく、反省の弁もない。ただ、国家元首として敗戦後も体制維持をはかるつもりならば、この時点で潔く責任を認めることはしないだろう。それは最低でも自分の廃位、さらに天皇制廃止を先導することになりかねない。

 道義的にはともかく、政治的な合理性の観点からは理解できなくもない。「国体(天皇君主制)護持のための責任回避」との批判は、「その通りだけれど、それが何か?」と返されれば、それでゲームセットになるのではないか。

 この詔勅の原案は、迫水久常書記官長は、川田瑞穂、安岡正篤ら二人の漢学者を相談役にして「終戦詔勅」の原案を作成した。漢学者というところに注意したい。イデオロギーとしての「純日本」は、漢文化の下地がどこかで透けて見えてしまい、無理がつきまとう。靖国神社の基になった水戸学にしても、朱子学プラス徂徠学が基礎になっている。

 原案の変更もあった。

 阿南陸軍大臣から原案の「戦勢日に非なり」は、これまでの大本営発表がウソになるので、「戦局必ずしも好転せず」に修正案が出され閣僚も了承。

 また「朕は…常に神器を奉じて爾臣民と共に在る」を、石黒農相は、「アメリカ占領軍が好奇心から、あるいは皇室の力を弱めるために神器の詮索をするから削除した方がよい」と提言し、採用された。
        「鈴木貫太郎自伝」から


終戦決断において、昭和天皇と側近が神器保持に強い関心を寄せていたことは、現代からみて理解が困難かもしれないが、見逃せないポイントである。

 大本営が捕虜となると云うが如きことも必ずしも架空の論とは云えず。爰に真剣に考えざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全うし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失うこととなり、結局、皇室も国体も護持し得ざることとなるべし。之を考え…難を凌んで和を講ずるは極めて緊急なる要務と信ず。

                   「木戸幸一日記」
    (昭和20年7月末、伊勢神宮爆撃の翌日に昭和天皇への木戸幸一の提言)


 昭和天皇自らも、こう述べているという。

  当時の私の決心は第一に、このままでは日本民族は亡びてしまう、私は赤子を保護することができない。

 第二には、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢、熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい。故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。 

   「昭和天皇独白録」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー、文春文庫)