本気の内田節、「街場の文体論」

「街場の文体論」(内田樹、ミシマ社)、読了。


 ラカンの鏡像理論を援用しての「自我とは事後的に成立する虚構」も、ソシュールアナグラム研究も、バルトのエクリチュール論の「フランス的限界」も、内田の読者にはおなじみのネタだが、著者本人が「今年一番、力を入れて書きました!」と本の帯に書いているだけあって、これまでとは違う「本気度」が伝わってきた。大学教員としての「最後の授業」のせいか、後半から終盤にかけては、内田らしからぬ感傷すら感じさせた。しかし、それも「本気度」に直結しており、内田がめざす「読者に届く言葉」になっていた。

 今日は、本書から、日本における戦時体験と日常生活との関係についての部分を紹介する。

 内田は、司馬遼太郎の著作、あるいは戦後文学は、否定的な意味ではなく、日本人向きに書かれた「内向き」の作品なので翻訳されないと指摘する。なぜ、「内向き」なのか。

 戦争に負けた。すべてを失った。プライドもなくした。身体も心も傷ついた。家産も家族も友だちも失った。自分自身も戦場で人を殺した、飢えた、仲間を見捨てた、仲間を食ったとか・・・といったすさまじい経験をしてきた。でも、なんとか生きて終戦を迎えた。

 たいせつなものをすべてなくした後、もう一度、平凡な日常生活を構築しようとして、ふつうにサラリーマンとして黙々と出勤しているというのは、戦場から戻ってきた人々にとっては、必死の達成なわけですよ。ちょっと前まで殺し合いをしていたんですから。

 その人たちが、まるで戦争なんかなかったかのような顔をして暮らしている。心のなかに、思い出したくもないし、誰に語ることもできないようなトラウマ的経験を抱え込んだまま、何とか日々の生計を立て、夫婦喧嘩をしたり、子供を育てたり、家を建てたり、不倫をしたりしている。でも、ときどきふっと心に隙ができたときに、その亀裂からトラウマ的経験の片鱗が覗くことがある。すると足がすくみ、息が詰まるような思いがする。


 わかる人にはわかる。水面上に出ているものがインチキくさく、安普請であるほど、そのサラリーマン生活が空疎であるほど、家庭生活や夫婦関係が薄っぺらであるほど、そのような凡庸で退屈な市民生活が必死で抑圧しているものの非日常性が際だってくる。そういう対比感を共有できない読者にはどこがいいのか、わからない。だから外国語に翻訳することに抵抗が働く。

 敗戦国の元兵士たちが会社員となる鬱屈を、内田の高い説明力が描き出している。

 外国人だけでなく、昭和40年以降に生まれた日本人も、「戦争体験と平凡な日常との対比感」は実感できない。昭和20年代から30年代生まれは、実体験はないが、戦中世代を親に持ち、その親世代を通じてなんとか間接的に対比感を想像することはできる。


 風船子も高校時代、通学する満員バスのなかで、くたびれた表情のサラリーマンたちをながめては、「この中には兵隊として人を殺したことがある人間がいるにちがいない」と想像していた。こうした会社員たちは、60年代末の学生紛争時代、「闘士」といわれた学生運動家たちから、「日常に安住する体制べったり」と侮蔑されていた。しかし、戦場体験を持っていた当時の中年会社員たちにとっては、「角材で機動隊と衝突」は日常の枠のなかでのママゴトにみえただろう。

 今、通勤電車で疲弊している会社員たちは、殺し合いに伴うトラウマとはもちろん無縁だ。良い悪いではなく、それが歴史的現実。


 内田は、その戦争体験にも世代格差があり、その観点から、丸山真男吉本隆明とを比較する。

(戦争について)何が起きたのか解明せんとする意欲においては、吉本も丸山も違いはない。違うのは、戦争に負けたというのが吉本の場合は「ひとごと」じゃないということです。丸山は大日本帝国には主観的には「貸し」しかない。取られた分をきっちり回収するのが丸山の戦後の仕事だった。


 でも、吉本は・・・自分の生身の「半身」を戦前に残している。少年期そのものが大日本帝国に「人質」にとられている。それは切り捨てることができない。切ったら失血死してしまうから。軍国少年として過ごした少年期の中の「救えるもの」を切り出して、それを戦後につなげたい。そう願った。


 江藤淳吉本隆明も外国語訳がない。たぶん外国の読者にはよく意味がわからないから。何をそんなに必死になっているのかが、外から見るとわからない。

 先行世代も後続世代も、誰もその仕事がどれほど自分たちにとっては切迫したものかをわかってくれない。ならば、自分たちでやるしかない。その孤立感と自負が、この世代の仕事を特徴づけています。

 戦後70年近い年月が流れた。「戦後」はとうに消えたはずだが、「敗戦の後遺症」は、今の混乱や衰退の足元に長い影を落としている気がする。