瀬島龍三評価の難しさ

 先夜、BSテレビで2009年放映の「不毛地帯」を再放送していた。周知のように主人公のモデルは、瀬島龍三だ。この回は、石油をめぐる商社間の激烈な競争の最前線で、クールな主人公(唐沢寿明)が勝利を収める展開だった。定番なりにハラハラ感があり、よくできていた。ただ、「実在の人物を美化しすぎてはいないか」と気になった。


 そこで、本棚から「瀬島龍三〜参謀の昭和史」(保阪正康、文春文庫)と「沈黙のファイル〜「瀬島龍三」とは何だったのか」(共同通信社社会部編、新潮文庫)を取り出して、再読してみた。ちなみに、この2冊は数年前に古本屋でほぼ新品の状態で購入したもので、前者が250円、後者が310円だった。取材に費やした人数と手間、そして濃密な内容を考えると、書籍の料金設定について考えてしまう。

 瀬島龍三。陸軍大学をトップクラスで卒業、陸軍入隊後は大本営参謀として主要作戦の立案に参画、敗戦一か月前に満州関東軍参謀に転出、敗戦で捕虜としてシベリアに連行され、重労働25年の判決を受け、11年間の抑留後に帰国。帰国後、46歳で入社した伊藤忠で会長にまで昇進、その後は中曽根康弘の懐刀として第二次臨調の主要メンバーになり、民営化など行革を推進する。

 エリート軍人として戦前、戦中の日本軍国主義の中枢を担い、敗戦では一転してシベリアに長期抑留される苦難にあい、帰国後は商社幹部としての高度経済成長を経験、晩年は臨調の「影の主役」となり国家改革に影響力を発揮した。 

 日本の現代史のそれぞれの局面で、瀬島はいずれも「主役級」の役割を果たしている。なかなかこういう人物はいない。それだけに、日本現代史を体現した人物として関心を集めてきた。


 瀬島を神格化した読み物は多いが、上記の二冊はいずれも批判に重点が置かれている。手法としては関係者の証言と関連文献の精読のうえに、長時間の本人へのインタビューも行っている。約300人を取材した保阪は「私は、感情的で個人的推測を交えて瀬島氏を批判する論者とは一線を引いている」と述べている。その保阪氏は、あとがきで、「私は、瀬島氏が歴史と関わった部分で誠実に証言をしない、あるいは歴史を歪曲しようとしている姿勢に、強い疑念を持っているのである。事実を語らないだけでなく、むしろ虚偽を語るケースさえあることに不信感をもっているのである。」とも書いている。


 新潮文庫のあとがきで、船戸与一は、こう書く。

 
 彼の行動にはたとえば石原莞爾のような思想性を読み取ることができない。そこにあるのはプラグチズムだけだ。わたしは平岡正明の名言をおもいだす。日本には転向の問題はかつて生じたことがない、転職の問題があるだけだ。瀬島龍三の人生はこの言葉を地で行くようである。

 
 アジア諸国の二千万の死。日本人三百万の死。
 
 これについて瀬島龍三の真摯な発言は聞かれない。徹底したプラグマチストにとって数字はただの数字なのだ。それは次のステップのための予備知識なのだ。
これは瀬島龍三の際立った特質というわけではない。いわば、日本的占領の共通した意識なのだ。そして、日本的土壌はそれをやすやすと許容する。
 

 確かに、二書における瀬島批判は、良く調べられている。

 瀬島本人のインタビューで、本人は、個人的な些細なエピソードは饒舌に語るが、自身が関与した本質的な事柄に対しては明確に答えない。それゆえに、保阪はここに「自己像を巧妙に自己演出するズルサ」を感じている。


 ただ、二書を再読しての印象は、黒とも白とも言い難い瀬島の複雑さだ。軍隊、収容所、企業、国家といった舞台で、リーダーとして修羅場をくぐった経験は事実であり、これが瀬島に複雑な陰影を与えている。

 本人のインタビューには、確かに自慢や苦労話もあるが、よくありがちな脂ぎった自己顕示欲は感じられない。本人が表面に出ずに脇役として「主役」の仕事をする、つまりはこれが「参謀のなかの参謀」と呼ばれる所以かもしれない。見方によって、これが「倫理的な自己抑制」にもみえれば、「自己演出のズルサ」にもみえる。評者の立ち位置で、判定は大きく変わってくる。

 たとえば、「シベリアでの赤化教育に屈しなかった大本営参謀」と言われる一方で、瀬島は東京裁判にはソ連側証人の一人に選ばれている。保阪によれば、証言は天皇の戦争責任には直接触れていないが、証言は「関東軍への命令は天皇から命令である」と述べ、間接的に天皇の責任を認めて結果的にソ連側の意に沿う形で進んだ。


 数年前に、偶然、瀬島龍三氏の近親者と話す機会があった。この人によると、生前の瀬島は、自分で公に答えたこと以外のことは身内にも話さなかったという。

  人物評価の客観性とは何かについても考えさせられた。