「昭和天皇実録を読む」を読む

 『「昭和天皇実録」を読む』(原武史岩波新書)を読む。

 全体としては、「昭和天皇の理解には、実の母である貞明皇太后との確執が重要」という原武史氏の持論を、「実録」で検証していくというもの。

 まず、昭和天皇の人間形成には、幼少期の沼津体験が多かったと指摘する。(同書からの直接引用ではなく、要約です)

 昭和天皇は幼少時に静岡県沼津にある川村伯爵の別邸で1年のうちに3か月ほど過ごした。
ここは、海に近く、後年の海洋生物学研究につながっていく。また生物学研究が非科学的なものへの違和感も生んでいく。
 また、皇太后、皇后ら近親の女性に囲まれて育ち、これが昭和天皇の女性的な性格に関係したのではないか。沼津には、明治天皇の側室(本当の祖母)たちとも一緒にいたこともある。
 ちなみに、明治天皇の子供は、男子が5人、女子が10人で、すべて側室の子供。生き残ったのは男子1人、女子4人。この1人が大正天皇


 成年になってからは、1921年の半年間にわたる訪欧が決定的な影響を与えたという。

 英国では、国王ジョージ5世と会見し、立憲君主制を学ぶ。また、一夫一婦制確立していた英王室のあり方についても影響を受けた。帰国から2年後、摂政時代に、それまで生涯独身で宮中に住み込みだった女官制度を大幅に改め、人数を減らし通勤制に替えて、後宮の名残を一掃した。

 また、フランス、ベルギーでは第一次大戦戦跡を訪ね、戦争の悲惨さを痛感している。

 
注目すべきは、カトリックとの関係だ。

 イタリアでは、ローマ法王ベネディクト15世に対面している。わずか20分の会談だったが、「実録」によれば、ローマ法王は「カトリックは、確立した国体・政体の変更は許さず、各過激思想に対して戦っている。将来、日本帝国とカトリック教会と提携して進むこともたびたびあるべし」と語った。昭和天皇は、カトリックへの親近感を抱く。この翌年から2年に1度、ローマ法王庁から皇室に特使が派遣されるようになった。

 ちなみに、「実録」によると、裕仁は1907年(明治40年)に、両親からクリスマスプレゼントをもらったとの記録がある。すでに明治時代に宮中にキリスト教行事が入っていた。


 法王庁への関心は、第二次大戦時にもみられる。

 シンガポールが陥落するなど、日本軍が破竹の勢いで進撃していた1942年2月に、「実録」には下記のような記述がある。

(東条首相に)ローマ法王庁への外交姿勢派遣等につき御下問になる(1942年2月14日)
 ひょっとすると、天皇の心のうちには、ここで戦争を終えるべきだ、今終えれば勝てるという思いがあったからこそ、ローマ法王庁への外交使節派遣を思いついたのかもしれない。

 
 そして、訪欧後、衣食住など生活スタイルが洋風化し、これが神道絶対の母親の貞明皇后との確執の原因になった。2015年に公開された戦時中の宮中防空壕として作られた御文庫付属室の天皇用便器は洋式だった。

 戦争末期の実例があげられている。

 皇太后は1942年12月に疎開先の沼津から東京に戻るが、「実録」によると、44年6月以降、天皇と会う間隔があいていき、12月から翌年6月まではまったく会っていない。これは不自然。天皇が皇太后を避けているとしか思えない。「高松宮日記」や「木戸幸一日記」によると、敗色濃厚という戦況について皇太后はまったく理解せず、神がかり的に聖戦遂行を主張していたという。天皇は、皇太后を軽井沢に疎開させて、政治から遠ざけようとした。


 敗戦直後の「退位」問題については、また別の回に。