S先生とヨブ記

 「S先生のこと」の続き。この本の主人公である米文学者、須山静夫は、自分に責任のない不幸に相次いで襲われ、同様の状況を主題にした「ヨブ記」に深い関心を抱く。


 旧約聖書の「ヨブ記」の主人公ヨブは、模範的な人物であったが、サタンの提案を受けた神は、ヨブの信仰心を試すため、ヨブの財産、子供、健康を次々と奪う。それでも、ヨブは神を恨まなかったが、「罪なき身」がなぜこれほどの苦しみを受けるのかと悩み、「私の罪は何なのか、教えてください」と神に直接尋ねる。この局面で、これまで沈黙していた神が登場してヨブに答える。


 「ここで神の言ったことというのは、『舐めるなよ!』ということなのでしょう。神が人間と同じ価値基準で行動するなどと思ったら大間違いだぞ、と。お前も含め、この世のすべては私が創ったもの、私のものなのであって、それをどうしようと私の勝手だ、と」(尾崎「S先生のこと」)。

 ヨブは、この言葉を直接、神から聞いて悔い改め、神もこれを認めてヨブに財産と子孫を与えてハッピーエンドとなる。

 須山は、ヨブ記に関して、詩人アーチボルド・マクリーシュの書いた戯曲「J.B.」を授業で取り上げる。これは、「ヨブ記」への疑問を下敷きにして書かれた作品だった。

 その疑問とは、以下のようなものだ。


 不条理な災難を次から次へと浴びせ掛けられた後、その埋め合わせに新しい子供、新しい財産を賜って、それでヨブは本当に再び幸福になれたのか?彼の心に「新しい子供も新しい財産もいらない。それより死んだ子供に戻ってきて欲しい」という気持ち、神を恨む気持ちはなかったのか?(尾崎、前掲書)


 子供を事故で失った須山にとっては切実な疑問だ。ヨブ記からは、この回答は読みとれない。

 
 この疑問に対し、ベストセラーになった「ふしぎなキリスト教」(橋爪大三郎大澤真幸講談社現代新書)は、こう答えている。(引用は要約)

(大澤)このテキストのすごいところは、本当に神様がでてきちゃうところです。神がやってきたんだから、ヨブも読者もちゃんとした答えを期待する。

 ところが、この神はまったく答えなんて言わない。求めている答えとは全然関係ないことを延々としゃべり続ける。「俺ってこんなにすごいんだぞ。文句言うな」。ここで神が言っていることは一種の自慢話だ。

 ぼくはここに、神とのコミュニケーションとは、一種のディスコミュニケーション、神とのコミュニケーションの不可能性を見たくなります。


「しゃべる神」、つまり、人格神の描写が「ヨブ記」の特徴でもある。

 橋爪は、仏教、儒教と比較して、こう説明する。

(橋爪)一神教の神は、人間のように意思があり、感情があり、理性があり、記憶があり、そして言葉を用いる。要するに人間の精神活動と瓜二つです。だから神との対話が成り立つ。訴えたり感謝したり、「祈り」と呼ばれる神との不断のコミュニケーションが大事になる。


 これに比べ、仏教は、自然現象の背後に神などいない。すべては因果法則によって起こっているだけ。人間をとりまくそうした法則をどこまで徹底的に認識したかが勝負であって、それが出来る人が仏(ブッダ)と呼ばれる。仏といえども、宇宙の法則を変えることはできない。法則には人格性がなく、ブッダと対話できても法則とは対話できない。


 儒教は自然をコントロールすべきものと考えているが、宇宙の背後に人格があるとの考え方がない。良き政治的リーダーを訓練して目的を達成しようとする。朱子学ではリーダーの背後に天を想定するが、天の基になる理や気は人格ではない。


続いて、「ヨブ=ユダヤ民族」の等式の指摘となる。

(橋爪)ヨブの運命は、相次ぐ苦難を強いられるユダヤ民族の運命そのものなのです。「ヨブ記」が否定されればユダヤ教は否定され、一神教は成り立たない。

 完全な神が、なぜ不完全な世界を作ったのか。いじわるじゃないのか。これには一応の説明がある。

 神は最初、人間を理想郷であるエデンの園に置いた。ところが、アダムとイブは、神の命令に背いて知恵の実を食べてしまい、楽園を追放される。今、人間がいるのは、楽園外の追放された地であるので不完全な世界になる。世界が不完全なのは、神の本意ではなく、神に背いた人間の責任になる。そういう不完全な世界を神の意思に反しないように正しく生きて行くのが人間の務めとなる。これが試練ということの意味になる。


 この背後には、日本的な神とは隔絶した一神教の神に対する位置づけがある。

(橋爪)日本人にとって神様は親近感がある。ちょっと偉いかもしれないが仲間のようなものだ。仲間なら多い方がいい。仲間との付き合いの基本は仲好くすることであり、これは日本人が社会を生きて行く基本でもある。この基本を神様にもあてはめたのが神道のような多神教だ。


 これに対し、一神教の神(God)は人間ではない。Godにとって人間は、作ることも壊すこともできるモノにすぎない。あるいは、Godが「主人」で人間は「奴隷」。人間にとってGodは、知能も腕力も強い地球外生命体、エイリアンみたいな怖いものというのが基本認識だ。だからGodと付き合うにはなれなれしくしたらダメで、いつもへりくだって礼儀正しくする。これがGodと人間の関係の、基本の基本になる。

 このよそよそしい関係を打ち砕こうとしてイエスは「愛」を唱えて大転換を起こす。


「仲間」としての神と「ご主人さま」としての神の違い。集団幻想の違いと言ってしまえばそれまでの話ではあるが。