「神の子」か「人の子」か

 本日の耶蘇教クリスマス特別講座は、昨年の新書大賞を受けた「ふしぎなキリスト教」(橋爪大三郎大澤真幸講談社現代新書)から抜粋です。紹介は正確な引用ではなく、要約にしました。

(大澤)イエスキリスト教という新しい宗教を作ろうとしたのではなく、ユダヤ教宗教改革みたいな形で出てきた。だから、キリスト教は、ユダヤ教聖典である旧約聖書新約聖書と並べて、聖典としている。否定し乗り越える対象(ユダヤ教)を自分自身のなかに保存して取り込んでいる点は、キリスト教の独特なところだ。


(橋爪)ユダヤ教キリスト教も内容はほとんど同じ。違うのは、イエス・キリストがいるかどうか。イエスは「神の子」であり、預言者ではない。イエスの言葉はそのまま神の言葉であり、神の言葉の媒介者である預言者とは格が違う。イエスの登場で、旧約の預言者は重要でなくなった。この時点で、キリスト教ユダヤ教からわかれた。


(大澤)イスラム教のムハンマドマホメット)は、最も偉大な預言者であるが、預言者預言者キリスト教徒にとってイエス預言者ではない。


「神の子」イエスの独自性。


(橋爪)キリスト教は、福音書によって成立したのではなく、パウロの書簡によって成立した。パウロはイエスを神の子だと確信していたので、それを意味づける教理を考え、ユダヤ教の枠に収まらないキリスト教が成立した。それが福音書の編纂を促したという順番。


(大澤)イエスが「神の子」なら、唯一神ヤハウェと並び、二人の神がいることになり、一神教の大原則と矛盾しないか。


(橋爪)入れ子になっているマトリョーシカ人形を想起してほしい。中にある一番小さな人形が実際の歴史的イエス、その次に大きいのが預言者エス、その次がメシア(救世主)イエス、処刑後に復活して天にのぼってレベルアップし、一番外側の大きな人形になる。これが「神の子」イエス

 橋爪の説明は、イエスの多層性をわかりやすく説明しているが、一神教原理との矛盾に対する回答にはなっていない。と思っていたら、この回答は、もっと先のところに書かれていた。

 キリスト教が成立するためには、イエスのスピーチは福音でなくてはいけない。それには自分が神の子だと意識する必要がある。
すっきりさせるには、イエスは100%神の子だから、人間の要素はゼロ。悩みや苦しみがあるように見えるが全部演技だった。あるいは、実在するのは神だけで、イエスはバーチャルな3D映像という話にすれば、一神教の体裁が保てる。これをキリスト仮現説という。


 一方で、イエスは100%人間で神の子ではなく、せいぜい預言者との考え方もある。これも一神教と矛盾しない。


 しかし、どちらも人々を満足させなかった。論争の結果、中間に落ち着いた。といっても足して2で割ったのではなく、「イエスは、完全な人間であって、しかも、完全な神の子である」となった。神の子でなければ福音が成立せず、かといってバーチャルな存在では人を救う力がない。その結果、イエスはイロジカルな存在になった。


(大澤)十字架での死が強いインパクトをもつ出来事であるためには、イエスは人として苦しみながら死ななければならない。ただ、そうなるとただ人が死んだだけになる。神の子の要素が必要になる。これは、キリスト教が抱えている究極の逆説のひとつの断面かもしれない。


(橋爪)神の子の自覚が100%ありつつ、人間としての苦しみを100%受けた。これが公式の教理です。


 「神の子」か「人の子」か。これは、「人の子」とするアリウス派と「神の子」とするアタナシウス派によるニカイア公会議での三位一体論争ですね。この話は、また明日。