龍樹式、俗にあって俗を超える

先日来の「世界は実体か虚構か」の議論の続き。今日は、「ゆかいな仏教」(橋爪大三郎大澤真幸、サンガ新書)から、キリスト教と比較しながら仏教の存在論に言及する箇所を要約引用します。この二人は「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)でも、掛け合いの妙技を披露している。

 (橋爪)キリスト教と仏教を対比させて言うならば、キリスト教のベースは存在論です。キリスト教では世界をGodが造った。だから個別のものは確実に存在している。そしてこれは概念化されて、名称によって呼ぶことができる。そういう存在の一つとして個人があり、神との関係を持つ。


その最初の出発点が仏教にはない。仏教には(万物の創造者としての)Godはいない。言葉はあるけれど万全ではない。世界の根底が存在でできているとはいえない。人間も社会も言葉も思考の素材になっているものはすべてとりあえずの暫定的な存在であり、現象であり、永続性や実在性が保証されていない。

 これは大きなパラドックスを生む。日常の中では、お金や食べ物や権利や地位は、みな実在性をもっていて、人間はそれを大事なものと思っている。しかし、仏教的には錯覚であり幻想であり煩悩であり無明ということになる。日常の社会経験が無根拠であることが仏教の認識の出発点である。日常生活との格闘が必要になる。


(大澤)仏教にある種の主知主義、認識の重視を感じる。世界の「空性」が認識されても、それを認識している「主体」があるのではないか。自我を否定する自我のようなものを前提にしている疑問を感じる。否定すればするほど、否定されるべき実体や主体が前提として措定されてしまう構造ではないか。


(橋爪)そういう疑問はキリスト教的。実体性を否定している主張そのものは、効果(effect)であって実体(substance)ではない。蜃気楼みたいでブッダの存在もそういうものかもしれない。


(大澤)とてもむずかしいところですね。


大乗仏教思想の中核にいるナーガールジュナの空論の評価は。

(橋爪)徹底的に論理的だ。

たとえば過去・現在・未来があるように思える。しかし、過去はすでに過ぎ去ってもうない、未来はまだ来ていないのでまだない。すると、過去と未来をもぎ取られてしまった現在は、現在ですらない。だから時間はない。「三時門破」と呼ばれる論法だ。

時間がなくなると、意識がなくなり、自分もなくなり、存在もなくなり、「現象の渦」が残るだけ。


(大澤)ナーガールジュナはそのまま現代のわれわれが理解できる。たとえば20世紀のエルンスト・カッシーラの「実体概念と関数概念」に引き寄せて言えば、ナーガールジュナの「縁起」は「実体」に対する「関数」に近い。ナーガールジュナの「縁起」は因果関係だけでなく、論理的な依存関係のすべてに拡張されている。父は、子との関係抜きにそれ自体としては存在しない、子の方も同様で、関係=縁起から独立した、父なる実体、子なる実体などない。縁起に還元できない実体など何一つない。自生(実体)はすべて無自生に転換され、「空」だけが残り、縁起=空となる。

 20世紀末期の思想は、実体に対する差異・関係の論理的先行性を主張した。ナーガールジュナは2000年近く前に同様の内容をより明確に論じていた。


(橋爪)コミューン運動は、間違ったこの世界の外に新しい共同体を作ろうとするが、大乗の「空」は、常識の罠からあなたを解放するが、そのあと、別な社会を作ろうとするわけではない。解放された人間も外見上、以前と同じように生きている。人生が二重になる。


(大澤)「中論」の二重の真理、「二諦説」に通じますね。真理を二重化するところも仏教の特徴。一方には、究極の真理としての第一義諦(実体はなく、すべては空)があるが、この立場に徹してしまうとこの世界では生きられない。他方に相対的な意味での世俗諦を認める。世俗諦は、言語的な分節を受け入れてそれに対応した実体が存在しているかのようにふるまう。この世を『暫定的な仮構の世界』との意識を持ちながら、世俗を生きる。


(橋爪)菩薩という考え方は「出家しなくても、ビジネスをしながら最高の修業ができる」という世俗の人たちにとって革命的な提案だった。ビジネスをしながら常識のトラップから抜け出し、ナーガールジュナの言葉づかいができるようになるだけでいい。


(大澤)仏教は「究極的には(つまり第一義諦としては)空なんだが、いちおう世俗の仕事をやれ」と言っている、そんな印象を持つ。


(橋爪)うむ、そこがポイントだな。

(大澤)カントとの対応で面白いのは「超越論的仮象」というアイデア。超越論的仮象は、一種の幻想だが、理性に基づいているので避けがたく、しかも人間が生きていく上で必要な仮象、たとえば霊魂、神、自由意思など。これらは、存在を理論的に証明できるわけではない、いわば「空」である。しかしそれを前提にしないと人間は生きられない。たとえば、自由意思があるという想定がないと社会生活を営むこともできない。

 これが強いていえば、仏教の第一義諦と世俗諦の構成に似ている。第一義諦としては「空」であっても、世俗諦には実体を認める。ただカントは仮象の必要性を重視し、ナーガールジュナは「空」に向かっていく違いはある。


 世界の無根拠性を意識の底に抱えつつ、日常世界ではすべてが「実体」であるようにお付き合いする。俗にあって俗を超える。

 在家覚者の処世としては、これしかないでしょうね。