女優・高峰秀子の屈折

 高峰秀子の人物像を描いたエッセーが面白かった。筆者の斎藤明美は高峰と親交が深く、のちに養女となった。5歳から女優をやっていた高峰の屈折が伝わってくる一文だった。

 高峰秀子は五歳で映画デビューした。この時の母親役は、松竹の看板女優・川田芳子、当時34歳だった。高峰は川田邸に招かれ、夕食を御馳走になった。


 「自宅に行くと、川田芳子は日本間でゾローっと振り袖を着ていて、母親が側で何から何まで世話を焼いていた。それを見て、『この人はダメだな』と思った」


 五歳で。

 川田は晩年、落ちぶれて最後は六畳一間のアパートで孤独死した。斎藤が高峰にこの話をした。

 黙って聞いていた高峰は、私が話し終わると、一拍置いて、言った。


 「女優の末路なんて惨めなもんです」


 この言葉を発した時、高峰は無表情だった。

 女優という生き物が持つ、その虚栄と傲慢と見栄と自己愛を、高峰は唾棄した。“他人の眼”なくしては生きていかれない女優という人種が持つ厄介なサガを、高峰を心底嫌っていた。


 「私は今、人気女優とやらで映画会社がたくさんお金をくれます。くれるものは有り難く頂いて二人で使っちゃいましょう。でも女はすぐに年をとります。女優なんて所詮、浮草稼業。やがて私が単なる御婆さんになったら、その時はあなたが養ってください」


 結婚する時、夫となった松山善三に高峰が言った言葉である。

 この時、高峰はまだ三十歳だった。

 冷めていたのだ。


 女優を何度もやめることを考えたが、やめられなかった。
 注目される恍惚からではない。自分以外の十数人の人間たちの生活を負わされたゆえに、やめられなかったのだ。

 嫌いでも、やめられないのなら、己に恥じぬ仕事をする。ただそれだけの思いで五十年を全うした女優だった。



        「高峰秀子の言葉」(新潮社PR誌「波」2013年1月号)


 心酔する相手への過度の神格化を感じるが、高峰自身が書いた「わたしの渡世日記」を読んでみたくなった。