神不在のユダヤ教

 今年もクリスマスがやってきた。この時期は例年、キリスト教にちなんだ記事を書いてきた。


http://d.hatena.ne.jp/fusen55/20101224/1293201368
http://d.hatena.ne.jp/fusen55/20101225/1293265035

http://d.hatena.ne.jp/fusen55/20111225/1324777660



 季節モノなので、今年もキリスト教について、ちょっとかじってみますか。

 まずは、昨日に続いて内田センセイの登場。この分野は、専門のレヴィナス研究と深いつながりがあるので、いつもは「素人の味方」のセンセイが、聖書解釈については「素人仕事はダメ」とおっしゃっている。

 レヴィナスによれば、聖書は「完全記号」です。(核兵器バブル経済、グーグルについても)聖書が書かれた時点で存在しなかったことについても、およそ人間がなしうる可能性のあるすべてのことについて神の叡智の言葉が書き記してある。これが、ひろく言えばユダヤ教徒の聖書解釈の考え方です。

 
 正しい導師に就き、正しい解釈の仕方を学んだものだけが聖書の真理をそこから引き出すことができる。
 

 聖書解釈においては、素人の仕事が一番つまらない。自分の生活実感を無批判に延長して、自分の歴史的条件の枠内に無反省的にとどまったままで、聖書を恣意的に解釈し、そこから当世風の教訓を引き出すのを聖書の「功利的利用」とすると、レヴィナスのような解釈はその対極にあるものだと思います。

 「論語」の「功利的利用」も日本では大流行ですね。さて、こうした厳格な聖書解釈はなぜ成立したのか。ここには、「神不在の宗教」というユダヤ教の背景がある。

 ユダヤ教には(「神の子」)イエスにあたる存在がいない。遠い昔に神と直接言葉を交わすことのできる人はいなくなりました。神殿も破壊されました。神との実体的なつながりを失ったユダヤ人に残されたものはテクストと儀礼だけでした。

 ユダヤ教のこの「テクストと儀礼の重視」に反発して生まれたのがキリスト教だったわけです。

 イエス・キリストが神性を「受肉」して超歴史的に臨在しているという教えは「神の不在」のもたらす空白を書物と儀礼で補填するユダヤ教正系の教えに比べると、ある意味ではずっと「人間的」です。キリスト教徒から見ると、ユダヤ教は限りなく無神論に近い。

 その観点からは、仏教はほとんど無神論そのものでしょう。

 今ここには神はいない。かつてはいたけれど、今はいない。いずれメシアが現れるかもしれないが、まだ到来していない。いつ来るかもわからない。「神は死んだ」ではなく、いわば「神はいま留守しています」というのがユダヤ教の考え方です。


 「留守である」にもかかわらず、「かつてはいた」と「いずれ戻ってくる」という確信を維持できるかどうか。それがユダヤ教的な信仰のあり方です。

 そして、内田は、旧約聖書の最重要メッセージについて、こう語る。

 ぼくが聖書でいちばん好きな言葉は、創世記でアブラハムにむかって主が言う言葉です。


 「あなたは生まれ故郷
  父の家を離れて
  わたしが示す地に行きなさい」
    
       創世記12−1


 ユダヤキリスト教の伝統のなかで、思想史的にもっとも重要なメッセージは「今あなたがいるその場所から立ち上がって、知らない世界に向かって歩み出なさい」という教えに集約されます。自分が閉じ込められている檻から出よ。自分が生まれついた風土から外へ出よ。


 日本人はむしろ「内へ」という根源的な指向が強い。外来のものをどうやって内へ取り込むか。そのことを民族的課題として引き受けてきた。聖書は、日本人とはまったく反対方向をめざしている。

 ぼくたちの理解も共感も絶した宗教文化が三千年続き、いまだに世界に強い影響を及ぼし続けている事実には率直に驚嘆すべきだし、ぼくたちはそこから多くを学ぶことができると思います。


    レヴィナスを通して読む「旧約聖書」(「考える人」2010年春号所収)