橋爪のマルクス講義、最終回

橋爪大三郎マルクス講義」紹介の最終回。


 マルクスの「ユダヤ人問題によせて」とアレントの「全体主義の起源」との
比較も面白かった。

 国家が国教から自己を解放することによって、すなわち、国家が国家としてどんな宗教も信奉しないで、むしろ国家が自己を国家として信奉することによって、国家は国家なりに、それの本質に特有の仕方で、国家としての自己を宗教から解放する。

                    「ユダヤ人問題によせて」(マルクス


 なんだか、世俗国家論というよりも「国家宗教」の分析といった印象を受ける。

橋爪は、「ユダヤ人はユダヤ教から改宗しても、キリスト教徒からユダヤ人とみられ、結局、ユダヤ人から抜け出せない」としているが、これはユダヤ人の定義によって結論が変わってくる。ユダヤ人を宗教的民族概念だとすれば、非ユダヤ教徒ユダヤ人は存在せず、ユダヤ教からの離脱がユダヤ人からの離脱になるのでは。

 

 アレントの分析によると、ユダヤ人がもっとも激しい反感の対象になるのは、ユダヤ人が外見からも何からも、一般人とほとんど区別がなくなって、社会に同化・融合し、そして自分たちの隣にユダヤ人がいるように混じって存在するようになったときだという。このとき反ユダヤ主義は、最大のポテンシャルを持つ。「ユダヤ人ではないオレタチ」という形で、純血民族主義の形の運動がうまれてくる。


 国民国家―国境や国家の確定に先だって、イタリア人やドイツ人のような民族の実体があったと主張する必要がある。これは一種の幻想として民族的な共同体を想定している。


 上記の指摘は、在日朝鮮人問題にも適用可能。

 お次は、ヘーゲル弁証法について

 ヘーゲル弁証法には、まず現実は間違っているという直観がある。だから理想状態に向かって変化していくと考える。ここがアダム・スミス流の近代主義と違う。アダム・スミスは、近代の市場メカニズムを完全だと想定したうえで理論的アプローチを行う。


 アダム・スミスは「神の見えざる手」という。これはスミスが「人間の手」を信頼していない証拠だ。人間は余計なことはしない方がよい。この感覚がヘーゲルにはない。ヘーゲルは、市場は必要だが、個々人の欲望は対立し、矛盾しており、そんな場所から私的利害を超える原理が出てくるはずがないとする。利害の対立を乗り越える公共性は、市場とは反対の位置にある国家として実現されなければならない、とヘーゲルは考えた。

 市場が不完全で不道徳であるからこそ、それを止揚する国家が出てくる、というヘーゲルの論理構成は押さえておく必要がある。


 マルクスは、このアダム・スミスヘーゲルの両方に立脚している。

 マルクスは、国家は資本主義経済の抱える矛盾を止揚したのではなく、隠蔽しているだけであり、むしろ矛盾を解決するどころか解決を長引かせる存在であるとする。


 次は、マルクス主義キリスト教の類似点について

 キリスト教の核心は、今ある世界は不完全であり、間違っている。人間はその本質において罪深い存在であり、人間は自分で自分を救うことができない。そこで、神の介入が必要となる。
「この社会は正しい。足りないのは自分の努力である」という日本的な感覚ではキリスト教にならない。


 マルクス主義は、この社会は間違っているがプロレタリア(一般大衆)は自分で自分を解放できない。そこで共産党(前衛)の介入が必要になる。ここはキリスト教と構造が似ている。「革命の日」がキリスト教における「裁きの日」に相当する。


 最後にホッブスマルクスの比較を紹介してお開きにしたい。

 ホッブスの「リヴァイアサン」における「万人の万人に対する戦争」は原子論(アトミズム)に依拠している。ホッブスは、自然状態としてバラバラの個人を想定する。しかしマルクスにとっての人間の原初状態は「類的存在」であり、共同体モデルをとる。


 バラバラの個人を基本にするホッブスには社会における世代交代の発想は乏しい。一方、マルクスは、個人ではなく家族を基本にモデルを考えた。この観点はマルクス独自である。

 橋爪の説明は、断定調で切れ味を感じるが、一方で、自分の思いつきに合わせて都合よく単純化しているのではないかとの疑問を素人として抱く場面もある。やはり若いときの「はじめての構造主義」(講談社現代新書)がベストだと思う。