鴎外の「妄想」

平日の午前中、ぽっかりと半日休みがとれた。題名に魅かれ、未読だった「妄想」(森鴎外)を読みだした。

 生まれてから今日まで、自分は何をしているのか。始終何者かにムチ打たれ駆られているように学問ということに齷齪(あくせく)している。しかし、自分のしている事は、役者が舞台へ出てある役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後に、別の何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。

ムチ打たれ駆られてばかりいるために、その何物かが醒覚する暇がないように感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生というのが、皆その役である。赤く黒く塗られている顔をいつか洗って、ちょっと舞台から降りて、静かに自分というものを考えてみたい、背後の何物かの面目を覗いてみたいと思い思いしながら、舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けている。

この役がすなわち生だとは考えられない。背後にある物が真の生ではあるまいかと思われる。

 悲しき秀才。なんだか痛ましくなるような率直さだ。


「人生は舞台」論については、別のブログで「自分自身を演じることの不可能性」を核とする古東の卓抜な分析を紹介したことがある。


http://blogs.yahoo.co.jp/soko821/7013339.html

 (外国の小説の)どれを読んでも自我が無くなるということは最も大いなる最も深い苦痛だと云ってある。ところが自分には単に我が無くなるということだけならば、苦痛とは思われない。ただ刃物で死んだら、その刹那に肉体の痛みを覚えるだろうと思う。自我が無くなるための苦痛はない。

 そんなら自我が無くなるということについて、平気でいるかというに、そうではない。その自我というものが有る間に、それをどんな物だとはっきり考えてもみずに、知らずに、それを無くしてしまうのが口惜しい。残念である。漢学者のいう酔生夢死というような生涯を送ってしまうのが残念である。

「死ぬときの痛み、苦しみはいやだが、死ぬこと自体はそれほどいやではない」
 これも率直な感想だ。この鴎外の「自我への執着のなさ」を東洋的、あるいは日本的といった場所に回収すれば「一丁上がり」となるが、それではもったいない。私には、洋の東西を問わず、文学や哲学とは無縁に生涯を送ってきた、知的でまっとうな人のつぶやきのようにも聞こえる。


 そして、鴎外は、当時の西欧化の風潮にことごとく難癖をつけた。

 自分は失望をもって故郷の人に迎えられた。それは無理もない。自分のような洋行帰りはこれまで例のないことであった。これまでの洋行帰りは、希望にかがやく顔をして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立ててご覧に入れることになっていた。自分はちょうどその反対の事をしたのである。

 そんな風に、人の改良しようとしている、あらゆる方向に向って、自分は本の杢阿弥説を唱えた。そして保守党の仲間に逐いこまれた。洋行帰りの保守主義者は、後に別な動機で流行したが、元祖は自分であったかも知れない。


 鴎外が台湾で軍医として勤務中、米食固執し、軍隊の脚気を悪化させた事実を、鹿島茂が連載「外ドーダとは何か」(朝日新聞出版PR誌「一冊の本」所収)で必要に追求している。この連載は、鴎外の知られざる顔を知るのに非常に有益だ。
 
 ちなみ6月号では、鹿島は、鴎外を滑稽なまでに留学先の文化に適合しようとする性癖を指摘、「優秀な学習機械」と呼んでいる。そして、「踊る鴎外」から「踊らない鴎外」への転身の物語…といったところで、午前の休みが終了した。続きはまた。