偽装としての武士道

 毎日新聞朝刊(8月8日付け)に見事な書評があった。田中優子による「日本政治思想史―十七〜十九世紀」(渡辺浩、東京大学出版会)の評だ。

 儒学とは何であったか。「儒学は、人類がこれまでに築いた、おそらく最強の体系的イデオロギーである」という見解にうなずく。儒学は江戸時代の日本を末端まで、ひとつの文明に鍛え上げた。
 本書は、儒学が江戸時代を作り上げただけでなく、日本の近代化をももたらしたものだ、と述べる。なぜなら儒学者は「超越的人格神など無しで、欧州の急進的啓蒙哲学者のように、何よりもnatureに依拠して、壮大な倫理と政治の哲学体系を構築しよう」としたからである。


 超越的人格神に依存しない考え方は、ともすれば目の前の現実に依拠して右往左往する現実追随主義になる。しかし、私見では、儒教のキモは、「現実に屈しない現実主義」ではないかと思う。

 武士は戦国時代や江戸初期にあっては忠誠心もなく、喧嘩を売り、乱暴狼藉を働いていたヤクザのような人たちだった。そこに、「勇猛な武士の概観と平穏な秩序を両立させる種々の行動様式」を形成していったのであって、それが「偽装としての武士道」であった。それは「武士らしさを偽装」する「真剣な演技」だった、という論理はまことに納得する。
 武士道というものがあたかも実体としてもあったかのように語られる今日、この戦争しない武士たちによる「らしさの演技」を確認することは重要だ。


 「偽装」だからダメだと言っているのではない。田中は、「偽装」だからこそスゴイと感心している。

 本居宣長も心に迫る。権威によって世を治めていた江戸時代にあって、宣長は「御掟にそむかず」という人生を全うする。墓の仕掛けからその意志が窺える。世のしきたりどおり寺で葬儀をして葬るように見せる。しかし実際の遺体は山室山に土葬し、そこに山桜を植えさせた。それが遺言であった。

 著者は「偽装の生」という。反体制的な国学思想を弟子たちに伝えながら、世間を無事に生きることで思想を残そうとするその生き方は、迫力がある。

 この本はすでに読んでいたが、田中というよき読み手の書評を読んで、再読したくなった。

 お勉強ノートの延長のような論文か、はたまた、素人受けを狙った悪ふざけか、いずれかに両極化しがちな大学教師の文章にあって、渡辺氏の文章は、ある種の余裕を感じさせる不思議な味わいがある。おすすめです。