「荒地の恋」の特殊と普遍
最近は多忙と集中力欠如のせいで、なかなか一冊の本を一気に読み上げることが少なくなった。そんななかで、昨日午後買った「荒地の恋」(ねじめ正一、文春文庫)は久々の例外となった。
「荒地」の詩人・北村太郎は、53歳で親友の詩人・田村隆一の妻に恋に落ち、仕事も家庭も捨てるが、かわりに詩人としての「言葉」を取り戻す…という実録小説。北村太郎、田村隆一、鮎川信夫など「荒地」派の詩人たちの詩作と実生活を再現した貴重な記録小説にもなっている。
詩人とその妻たちは、強固で、かつ、バランスを欠いた奇怪な自我の持ち主たちだ。しかし、それは、どこかで、多くの人間が平穏な日常生活を送る代償として、抑圧している欲望を反映している。その意味で、浮世離れした詩人たちの痴話喧嘩ではなく、「生活とは、自由とは、夫婦とは何なのか。詩人に限らず、人生を歩む者に等しく迫る」(西川美和による文庫本解説)ものになっている。
同書に紹介されていた北村太郎の作品の一部を紹介する。
朝の水が一滴、ほそい剃刀の
刃のうえに光って、落ちるーそれが
一生というものか。残酷だ。
―「朝の鏡」
男は大きなため息をつく
「地獄へだってなかなか行けやしない」
−「青密柑」