「迷う鷗外」

 森鴎外の続き。

 鹿島茂がドイツ留学時代の森鷗外による「過適合」について指摘している。

 優れた「学習機械」である鴎外は、日本人留学生として「学ぶべきこと」はもちろんのこと、日本人留学生としては「学ぶ必要のないこと」まで学んでしまい、この過適合によって、仲間の留学生から「なんだ、あいつは!」と顰蹙(ひんしゅく)されていたのではないか。

連載「ドーダの文学史」(朝日新聞出版PR誌「一冊の本」10年6月号所収)


その一例が社交ダンス。鹿島は、鷗外がドイツ人と親しく交わるには社交ダンスが必要と判断し特訓したのではないかと推測する。
鷗外の「独逸日記」に社交ダンス学習の記述はないが、たとえば「米国人の友人2人一緒にダンス場に行くがそのうち一人は欧米の若い人には珍しくダンスが踊れなかった」との記述はある。そのほかにも舞踏会に出席したという記述が複数ある。舞踏会に何度も行ってダンスを踊らないとは考えにくいというのが、鹿島の「踊る鷗外」の根拠だ。

 しかし、在留邦人が少ないドレスデンから帝都ベルリンに移ってからは「舞踏会に行く」との記述が日記から消える。さらに、明治19年3月6日の日記には「舞踏の余興あり。余は舞踏すること能はざるを以て、家に帰り眠に就けり」とあり、「ダンスはできない」と明言している。

 そんな馬鹿な!この日を境に「踊る鷗外」から「踊らない鷗外」への大転換が起こったのである。


 この日に何が起こったのか?鷗外は、この晩、日本に長く滞在したドイツ人学者ナウマンのスピーチを聞いていた。
その概略は次の通りだ。

日本の開国は、自発的ではなく外国の要求に屈して開国させられたのが実態だ。新しい国家組織の編成にあたっては、西欧国家の諸制度を無批判的模倣で導入した。したがって西欧文明を継承したわけではない。

王政復古の年あたりに、日本人は一艘のスマートな蒸気船を購入した。表面的な航海術を学んだ日本人船員が乗り込み試験航海に出た。しかし、機関の動かし方は知っていたが止め方を知らなかった。そこで船は帰航したが燃料切れで止まるまで横浜港内をぐるぐる回っていた。
 
私(ナウマン)は、日本という船が同じような運命に陥らざらんことを、つまり機関の火が落ちるまで輪を描いて廻りながら待つ悲運に陥らざらんことを切に希望する。


 ナウマンがこのスピーチをしたのは明治20年(1887年)だ。その後の歴史の展開をみれば、これは恐るべき適格な予言であった。しかし、鷗外はこのスピーチに憤慨した。
 
 憤慨の理由を鹿島はこう解説する。

 鷗外にとって、盲目的な模倣を繰り返している日本や日本人というナウマンの批判は、皮相的で盲目的な模倣をしている自分、すなわち「踊る鷗外」への攻撃と解釈されてしまったのである。

「おい、こら、そこのいい気になってドイツ女性とダンスを踊っている日本人、ドイツ人将校をマネしているつもりらしいが、全然さまになってないぞ。みっともないぞ。おまえは<自分を知らない、こせこせした、命の安い、見栄坊な、小さく固まって、納まり返った、猿のような、ももんがあの様な。茶碗のかけらのような日本人>だぞ」

 と、「踊る鷗外」は、パリで自虐的になった高村光太郎が発した「根付けの国」の言葉に似たものをナウマンの講演のうちに聞いたと思い、自分への直接的人身攻撃と感じたのである。
 ドイツに留学しているどんな日本人よりも、自分はドイツ社会に適応していると感じている分だけ、皮相的な猿マネというナウマンの批判は「こたえた」に違いない。


 しかも、鷗外の自我は光太郎とは違っていた。

 (鷗外にとって)「国家・家族・自我」は三位一体的な結合だった。国費留学生として国家にぴったりと張り付いていた鷗外の自我は、私費留学生である高村光太郎永井荷風のように、国家と自我を容易に分離して、疎外された自我から国家を客観的に撃つという方向には進まなかった。


 これは昔の話ではない。日本で外国語を操り「国際派」と呼ばれる人びとから立ち昇る傲慢と滑稽さは、相変わらずだ。また、対日非難を自分への誹謗と受け取る「愛国派」の幼児性と滑稽さも相変わらずだ。そして、「集団と自己」との関係をめぐる悲喜劇は、もちろん、日本だけではない。

 ここで鷗外の「妄想」の戻りたい。
鹿島は、鷗外にとって「国家・家族・自我」は三位一体だったとするが、ちょっと単純化しすぎているのではないか。「妄想」では、「迷う鷗外」がいる。

 日の要求(仕事)を義務として、それを果たして行く。これはちょうど現在の事実を蔑にする反対である。自分はどうしてそういう境地に身を置くことができないだろう。
自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のいないはずの所に自分がいるようである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。道に迷っているのである。
 
 自分はこのままで人生の下り坂を下って行く。そしてその下り果てた所が死だということを知っている。しかしその死はこわくない。自分には死の恐怖が無いと同時に「死の憧憬」もない。
 
 死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下っていく。

 世間的には名声を得ていた鷗外だが、まっすぐに迷い、迷いから逃げようとしていない。胸をつかれる。

 鷗外は、道楽らしい道楽にはまったく関心が持てず、読書も楽しみというよりほかにすることがなく、「本を読むことを余儀なくせられた」状況だった。

 その読み方も、耽読というより、交差点で通行人の顔を観察するように本を読んだという。

 自分は辻に立っていて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あったのである。
 帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に付いていこうとは思わなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢わなかったのである。


 「妄想」には、海辺の粗末な小屋で隠遁生活をする老人の描写がある。鷗外が望んで果たせなかった生活かもしれない。

 「近代化と自我の苦悩」は、漱石ばかりに注目が集まるが、国家機構の内部にいた鷗外の方により激しい軋みを感じる。ゆっくりと再読してみたい。