自我の個別性と集団性

「自分であるとはどのようなことか」=「関係としての自己」Ⅳ章(木村敏みすず書房)=の要約の第二回目。

「主体性」には、個的な主体性と集団的な主体性の二重構造がある。いずれにしても、形成には「関係」が大きく関与している。「自己とは、自己と世界との間の関係そのもの」である。
<風船子注・これがこの書籍のタイトルになっている>


 ただ、自己がすべて「関係」から生まれるわけではない。「自分であるとはどのようなことか」what it is like for me to be myself.という一人称的な実感は、「関係としての自己」をはみだしてしまう「異物」でもある。
<風船子・「一人称的な実感」、言いたいことはわかるが、もう一歩踏み込んだ言葉がほしい>


 その理由は、各人が、自己を、世界、あるいはアクチュアリティの中心そのものとして経験しているからだ。中心としての自己は、自己以外のすべてのものを交換可能な多数性の相において見ている反面で、自分だけは絶対的に交換不可能な単独性の相において見ている。このような単独者としての自己にとってのみ、他者はやはり単独者として、他者自身が中心である世界を生きる異界の住人としてとらえられる。


 今や、われわれは徹底的に個別化され、「存在」や「生」の概念のもとに自分自身の個別的存在や生存しか理解できなくなっている。そこでは、死は、「世界の外部」であり「不可知」、個別的生命の中では絶対に現前しない「未来」である。

 しかし、集団的自己の観点からみれば、むしろ「死」は、個別的存在が集団的自己から発生してきた「自己の古層」ではないか。個別の死は、集団的生命の一部であるにもかかわらず、個別的自己にとっては「死」にみえる。これは、特殊人間的錯視である。


 「死」は、自分を生んだ母体である集団的自己の一部であるのに、人間は、これを「絶対的外部」と錯視している。「種としての生物」から切断された「自我」のあり方の指摘。

 
 全体を総括する文章があったので、これは要約ではなく、引用する。

 生物進化の途上で、ヒトにおいて初めて言語機能が獲得され、それと密接に連結して個体が自己自身の唯一性・一回性・交換不能性を自覚するようになった。個の存在が主要な関心事となって、種の繁殖は生の至上目的ではなくなった。しかし、この巨大な飛躍の代償として、人間は自らの社会的行動のすべての場面で、同種集団の一員としての(交換可能な)自己と単独者としての(交換不可能な)自己、種の主体性と個の主体性とのあいだの微妙な調整という、本能的な課題を背負い込むことになった。

 精神科医である著者は、上記の本能的課題をうまく対処できないタイプの日が分裂症との親和性を持つと指摘している。


 要約してみると、確かに理解が深まった気がする。自我を個別性と集団性に二分する内容自体は、それほど新鮮味はなかった。一歩間違えると、個別的自我を「大我」である集団的主体に融解するように誘うよくある手法(宗教、全体主義)になってしまう危惧も感じた。

 ただ指摘されている問題は、「自己」を考えるときの不可欠の要素が多く含まれていた。とくに個別的自己を集団的自己に全面還元せず、かつ、じゃまな「自我」を上手に希薄化する方法を模索中の当方にとっては頭の整理に有益だった。