子規と差別意識

 風邪なのか、体調がずっとすぐれない。熱っぽいが、体温計は平熱を指している。風船子の場合、体調が悪化すると自我の濃度が薄くなり、生への執着が低下する。「今、このまま消えても、ええやないか」。これは悪い気分ではない。ただ、「自我」が体調と簡単に連動してしまうというのは、「自我」が身体にとってオマケのような脆い「作りモン」という証拠かもしれない。あるいは、単に風船子の自我が脆弱なだけかもしれない。後者に一票。


 さて、体調をくずすと手が出るのが、子規の病床日記である「墨汁一滴」(岩波文庫)。このなかで、とんでもない句を見つけた。

 鶴の巣や 場所もあらうに 穢多の家

 子規はこれを「月並み調の部」としているが、それにしても…

 文庫の巻末に岩波文庫編集部は、「編集付記」としてこの句に言及している。

 
(この句は)差別用語を用いているのみならず、著しい部落差別の意識を前提として成立している。明治三十年代における作者・子規自身およびその時代の差別意識の根深さを現わすものであるとみなければならない。今日なお部落差別が解消されず存在し続ける中で、右の如き重い歴史的・社会的事実を直視しながら、原文をそのままの形で掲出した。