空気抵抗とプラトン批判

純粋理性批判」の旅、まだ二日目。「アプリオリな認識」と「経験的な認識」の区別についての説明が続く。

 「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。


 だとしたら、そもそもアプリオリな命題ではないのでは、と初学者の分際で世界のカントに突っ込みたくなるが、まあ、とにかく、ゆっくり、ぶらぶら、歩いて行こう。


今日、読んだ中では、「ハトにとっての空気抵抗」と「プラトンにとっての感覚世界」との類似を指摘した部分が面白かった。このプラトン批判の比喩は使える。


身軽なハトは空中を自由に飛翔しながら空気の抵抗を感じ、空気の抵抗のない真空であれば、もっとうまく飛べるだろうと考えるかもしれない。プラトンも同じように、感覚的な世界が知性にさまざまな障害を設けることを嫌って、イデアの翼に乗り、この感覚的な世界の<彼岸>へと、純粋な知性の真空の中へと、飛び去ったのだ。


そしてプラトンは、その努力が彼の探求にいささかも寄与するものではないことには気づかなかった。[真空の中では]その上で自らを支えたり、それに力を加えたりすることができるような、いわば土台となるいかなる抵抗もないために、知性を働かせることができなかったのである。


※[ ]内は、訳者の中山元氏の挿入語句


空気が飛行を可能にしている条件であることをハトは気が付かず、むしろ阻害要素だと思い込んでいる。プラトンが、感覚の世界が認識を可能にしている条件ではなく、知性を阻害していると思い込んでいたことと同じだということ。

思索にふける人間の理性にとっては、自分の建造物をできるだけ早く建設してしまって、その後になってやっと、建造物の土台が適切に構築されているかどうかを調べるという[転倒した]やりかたが、いわば普通の<宿命>となっている。


しかし、そのときになると人間というのは、さまざまな言い訳を考えだして、建物の土台は強固なものだと言いきかせて自らを慰めたり、後になってから点検を実行するのは危険だと拒んだりするものなのである。


 単なる「思考の誤謬」だけでなく、宗教も対象にしているのではと感じるのは、初学者の思い込みか。