「遠雷」(立松和平)賛歌

 宇都宮に行った。

昔、2時間ほど立ち寄ったことがあるだけで、事実上、初めての土地だ。宇都宮と聞いて、すぐに浮かぶものがない。駅前に並ぶ看板をみて思い出した。そうだ、「餃子の街」だった。

 中心街であるオリオン通り。なんだか人通りが少ない。地元に住む知人から、マクドナルドがここから撤退したと聞いた。「北関東最大級の書店」の看板にひかれて、長崎屋に入る。この中に喜久屋書店があった。
 たしかに、広々としている。そうだ、宇都宮といえば、先日亡くなった立松和平がいた。文庫本コーナーをさがすと、あった、あった。「遠雷」(立松和平河出文庫)があった。

  団地の建物が白濁したビニール越しに見えた。部厚い光の膜をかぶせたようだった。トマトは草勢のおとろえることもなく日々
実をふくらませていた。ここ一週間ばかり、満夫は収穫に忙殺された。余分なことなど考える余裕はなかった。

 
  風がでた。ハウスはばたばたと空に羽撃いていきそうなほど鳴りはじめた。十一時過ぎになって、温度計が三十度近くをさ
しているのに気づいた。三十二度を越えると茎が割れて穴があき一日で駄目になる危険があると農業技師が話していた。ボイ
ラーを焚き気温が低くならないようにしてきた細心の心配りが、今度は高温になりすぎないようにといっそうやっかいな気苦
労に変ったのだ。
 

  風向きに面したビニール。無防備なトマトの葉や実は恐怖におののく感じで騒いだ。見ている前で実が落ちた。


 ああこいつらはこんな風にすら堪えられないのだなと、満夫は自分が手塩にかけて育ててきた作物ながら思った。ビニールを戻すや温度計の赤い柱が見る間に昇った。別の方向のビニールをあげても空気は動かない。母は何も知らぬげに花鋏で果実を摘んではコンテナボックスに納めていた。満夫は農薬散布用の噴霧器に水をいれた。トマトとの間に一瞬水の壁ができ、くっきりと虹が浮かんだ。霧が沈んでいくにしたがい虹は淡くなって消えた。

 いやあ、傑作だった。

この小説を原作とした同名の映画(根岸吉太郎監督、永島敏行主演、1981年)は封切り当時に見て、非常に面白かった記憶はある。しかし、テレビでのお人好しイメージが強く、小説家としての立松本人に興味がわかず、作品を読む気にならなかった。30代前半でこれだけの描写力を持っていたとは思わなかった。

 「地方都市郊外での都市開発による農村共同体の崩壊」といったあたりがテーマ。よくある題材だが、これだけのリアリティを登場人物たちに与える力量は並ではない。

とりわけ、時に鬱屈し、時に奔放に、登場人物たちを突き動かす濃厚なセクシャリティの描写は圧巻だ。中上健次の「枯木灘」を想起させた。私自身、場所は違うが、農地が急速に宅地化していく地方都市郊外で育ったこともあり、個人的な感慨もあった。

 ザリガニを釣る餌にするため、アマガエルを殺す場面の描写も、強く響いた。

 満夫は笹にとまった雨蛙を素早く摑んで地べたにたたきつけた。緑色の蛙は白い腹をひとつ大きく波打たせてから動かなくなった。ぐんにゃりと柔らかい蛙を摘み、顎の下の窪みに爪をいれて一気に皮を剝いた。靴下を脱ぐようにして蛙は半透明なピンクの肉を震わせた。瞳を近づけると、内臓の動きや管の中を流れていく淡い血液が見える気がした。目蓋も皮が剝かれ、黒い瞳が透けていた。

 立松は、自身による文庫解説でこう書いている。

 百年の時間が一日のうちにたってしまうようだ。これほど激しい有為転変に直面している都市近郊農村の姿は、グロテスクである。都市が病的に肥大していく近代日本の現実は、都市近郊農村に奇形となって集約してくるのだ。

 近代化のグロテスクぶりを指摘したうえで、立松は「状況論」としてつき放さず、これを受け止める。

 時代状況が最初にあるのではなく、虫のように欲望を隠そうともしない人間、その人間に徹底して管理されているにもかかわらず発光するトマト、ビニールについた水滴、湿った土から立ち昇る白糸のような蒸気、水の中にあるように見えるビニール越しの団地、それら手を伸ばせば触れられる細部のひとつひとつにこだわることによって、下から見上げていくのである。時代という曖昧なものも、そうやってしか身をもっては見えないのだ。

 大金をつかまされて気違い踊りをする人間が、結局のところ私は好きなのだ。私もまた彼らと同じ地面にいて、彼らと同じ空気を吸い、彼らと同じことをしている。この小説を書いたことが、もしかすると私の気違い踊りなのだ。


 昨年、ある集まりで、短い時間だが立松と同じ部屋にいたことがある。でも、まったく言葉をかわさなかった。「遠雷」を読んでいれば、何か話しかける気になったかもしれない。

 最後に、「遠雷」が野間文芸新人賞に選ばれた時(1980年)の選評を紹介する。

 今度の新人賞候補作品を読んで、私は立松和平氏の『遠雷』に、何を書くべしと自らに命じる力の最も強い作品を見た。この人にはさしせまって書くべきことが確かにあったと思う。(中略)作品が粗野で品に欠けるという批判もあったが、それはこの小説が、現代日本の社会自体大いに品を欠いているという事実を忠実に体現しているからのように思われる。 (大岡信


 立松和平氏というと、力で押して行く小説家という印象が真先にある。力に頼るものは力に溺れやすい。力はしばしば空転する。立松氏のこれまでの作が強引な空振りだったとはもちろん思わないが、悪球を力任せにひっぱたいているような眺めも、まま、見受けられないではなかった。しかし『遠雷』では、農村の崩壌というきわめて現代的な主題が、充分に手もとにひきつけた上で、たしかに打ち返されている。 (川村二郎)


 一体、近郊の農村が、見る見るうちに都市化の大波に蚕食されてゆくという話は、耳馴れているトピックスのようでいながら、さてこれをまともに作品化したものは、見当らない。立松さんは、これをノスタルジーをこめて慨嘆しているのではなく、といってただ突っ放しているのでもない。諷刺的な喜劇小説のようでいながら、奇妙なこわさを感じさせる所がある。(佐伯彰一

 
※写真は、宇都宮駅前の餃子屋の看板。