日常の凄みと奇怪さ、キアロスタミ

 「ライク・サムワン・イン・ラブ」(アッバス・キアロスタミ監督)を観る。強い余韻が残った。題材が「日本の都会の日常」だったので、映画館を出た後、都会の雑踏に出てもまだ映画が続いている感じがした。スクリーンと現実が地続きといったところか。


 ただ、この作品での「日常」がくせものだ。非日常的な出来事は一切起こらないし、ストーリーの流れもある。しかし、全体が完結しない。連続テレビ小説でいえば、最初の数回はとばして8回目あたりから見始め、最終回のかなり手前の39回目あたりで見るのを止めてしまう感じに近い。起点もなければ終点もなく、複数の出来事のほとんどが因果関係と無縁に偶発的にだらだらと続く。確かにそれが日常の「素顔」だ。


 レストランの場面。登場人物がセリフを言う場面で、周囲の人々のさまざまな会話がかなりの音量でかぶってくる。映画館帰りの通勤電車で、意識的に耳をそばだててみると、さっきの映画とまるで同じように周囲の会話が聞こえてくる。


 イラン人のキアロスタミが、何ゆえに現代日本の日常を映画化しようとしたのか。小津ファンであることが要因ではあろうが。台本に頼らない演出は、昔、直接話を聞いたことがあるマイク・リーを思い出させた。中卒のキレやすい整備工役の加瀬亮の演技にも力を感じた。