人生もへったくれも

 新聞の文芸時評が目に入った。6月27日付けの朝日新聞掲載の松浦寿輝文芸時評だ。

 
松家仁之「火山のふもとで」は、文章の清潔と典雅、物語展開の見事に統御された緩急の呼吸、過不足ない描写の節度と鮮烈…ここにはさしあたり人が小説に求めるすべてがあるとも言える。

 賞賛したあとで、松浦は「しかし」と続ける。

 
この「近代ブルジョワ小説」の佳品を前にして、江藤淳がかつて用いた「フォニィ(嘘くさい贋物)」などという言葉がふと頭をよぎる。多和田葉子「雲をつかむ話」の自由と飛躍、わけのわからなさと突拍子もなさの魅力はここにはない。

 
それがあるのは、たとえば、馬鹿々々しさの極みともいうべき木下古栗「人は皆一人で生まれ一人で死んでいく」であろう。あるいはまた、「学校怪談」の定型を精密かつ暴力的に脱臼させている藤野可織「おはなしして子ちゃん」であろう。

 松野氏は30年以上前に文學界新人賞の佳作をとっている。このとき、選者の阿部昭は選評に「作者はまだ二十歳だという。何もそう急いで小説を書くことはないと私などは思うのだが」と書いたという。松野氏は、この忠告を結果的に受け入れ、以後33年の人生経験の円熟を「火山のふもとで」に結晶させた。

 いい話であるが、松浦は、またも「しかし」と続ける。

 
 しかし、木下古栗や藤野可織は、「急いで」いるかどうかはともかく、歳月のもたらす成熟が小説に不可欠だなどとは毛頭考えてはいまい。小説が「嘘くさい贋物」だということを当然の前提としたうえで、それをほどほどの「本当らしさ」へ転じようなどという殊勝な志などはなからなく、むしろその胡散臭さ自体を徹底化し過激化しようと試みているかに見える。


 要するに、人生もへったくれもあるものかということであり、わたし自身の文学観もそれに近い。


 私の文学観も松浦の「それ」に近いが、なんだか、「殊勝な志」の持ち主にされた松家氏がかわいそうになった。