儒教、仏教、道教の相互関係とは?

儒教とは何か」(加地伸行中公新書)の第5章「経学の時代(下)」の紹介。後漢から隋唐時代までの儒教、仏教、道教の相互関係について、示唆に富む指摘が満載されている。
 少し長くなるが、お付き合いのほどを。短くするために、正確な引用ではなく、要約しています。

 儒教自身の宗教性は、各家族における祖先崇拝となり個別化したため、教団といったものができなかった。だから儀礼が慣習化され、キリスト教教会や仏教寺院が与えるような宗教性を意識しなかったのは、やむをえなかった。その結果、宗教を求める人々の意識は、仏教や道教に向かった。そして、後漢から隋唐時代までの間、儒教、仏教、道教は相争い、やがて融和していく。

 この三つはどこが違うのか。

 (人間社会を中心とする)儒教は政治理論においては仏教、道教より優位にあったが、宇宙論形而上学では劣勢だった。

 死生観では、仏教は輪廻転生、儒教は招魂再生、道教は不老長生を説いた。
儒教では、人間は死ぬと魂は天上に、魄は地下に行く。死者の子孫が、祖先を祭祀すれば、現世に再生できるとする。しかし死については運命を受け入れ、無抵抗である。
一方、道教は死に対して敢然と挑戦する。気功や太極拳で体を鍛え、キノコなどを材料に薬を作った。その努力の到達点は永遠の生命を持つ仙人になることだ。また道教の神々を拝めば現世利益にもつながる。

つまり、

儒教―子孫の祭祀による現世への<再生>
道教―自己の努力による不老<長生>
仏教―因果や運命に基づく輪廻<転生>

となる。


 それでは、現世への執着が強い中国人がなぜ仏教を信仰したのか。加地は、「壮大な誤解」を原因にあげる。

 中国人にとっての仏教は、仏教本来の「生きていることが苦」との前提が抜け落ち、死んでも肉体を持って楽しい世界に生まれることができる教えと考えられた。こういう壮大な誤解によって魏晋六朝から隋唐時代に民衆において仏教が大流行した。

 儒教知識人は、これに対し、どのような批判を展開したのか。

 最大の問題は、仏教では霊魂が死なずに転生するところにあったため、儒家は仏教批判のために、なんと霊魂の存在を否定する立場に至る。これは儒教からいえば誤りだが、当時の儒教知識人が霊魂の存在を認める自分たちの宗教性を忘れ、礼教性でこりかたまっていたため、霊魂の否定という逆の立場になってしまった。

 ここは、儒教の宗教性を考える上で重要なポイントだ。

 加地は一貫して儒教の宗教性を強調している。しかし、一方で儒教は「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」(「論語」先進篇)として「社会倫理=道」を説く現世的な教えでもある。加地の主張も理解はできるが、当方としては、儒教の非宗教性は、一神教的世界観を脱する契機を持っており、「多様性と平和の共存」という現代世界の最重要課題にとって「使える要素」ではないかと思う。

 浄土思想への言及も面白い。

 死後も楽しいこの世に再び生まれ変わることができるとの誤解が広がった結果、それはつきつめた形として浄土思想が大流行となる。これは日本も同様だった。死後に長い輪廻の苦しみが待っているとしないで、阿弥陀如来の本願にすがって浄土に行けるとするのは、中国人や日本人、楽天的な東北アジア人にぴったりであった。
 ちなみに中国では、仏教におけるいろいろな考え方のうち、結局、自力の禅と他力の浄土思想との二つが残った。
 自力の禅は、老荘思想の超世間、自然重視と結びついていく。

 仏教側にも、大きな変質があった。儒教の強烈な祖霊信仰・祖先崇拝を背景に葬式は儒教式が普通だった。そこで仏教は中国人に浸透するために、輪廻転生とは真っ向からぶつかるはずの祖霊信仰をとりこんでいった。その手段として、「盂蘭盆経」や「父母恩重経」などインドに原典のない偽経まで作り上げた。
 日本での奈良・平安期の仏教の普及ははやかった。これは中国に比べ儒教の民衆への浸透が低かったことや、すでに中国で祖先崇拝や喪礼を導入した仏教が日本に伝わったことが原因にあげられる。