「唯仏論」に学ぶ

 「知的唯仏論」(宮崎哲弥呉智英、サンガ)を読了。宮崎は、テレビ出演を生業とする「電波芸者」との印象があったが、仏教への研究的姿勢は本格的であり、驚いた。この本では、うるさ型の呉が「生徒」になり、おとなしく御高説を拝聴していた。


 仏教に関する有益な論点がいくつも紹介されていたが、本日は、総論的な部部分と輪廻についての箇所を紹介する。
短く、わかりやすくするため、「ですます」調を変えるなど、原文そのままの引用ではありません。


 まずは、仏教は「疑いが信仰に組み込まれており、ハードルが低い」との説明から。


(宮崎) 懐疑的態度こそ仏教の本旨。ブッダは初期経典で、自分が口にしたどんな清らかで明瞭な見解にさえしがみついてはならない、と弟子たちを戒めている。大乗仏教以降は、ブッダの教えの集大成である経典を宝物のように扱い、なかには呪術的儀礼の用具にしている場合もある。


(呉)仏教は、きわめて理知的な宗教。キリスト教イスラム教と違って、最初から「信じる」という飛躍を求めていない宗教。


(宮崎)仏教の特徴を一言でいうと、「受け入れなければならない前提が極端に少ない宗教」である。キリスト教は、全知全能の神、マリアの処女懐胎最後の審判…無条件に受容しなければならない前提が山ほどある。仏教は、無常、無我、縁起などのわずかな「公理」からすべての教えが論理的に導き出せるようになっている。


(呉)仏教は必ずしも神話を必要としない。キリスト教は、「神が宇宙を作った」から始まる物語を受け入れれば、非常に感動的な物語として入ってくる。


(宮崎)最近、中堅仏教学者たちの間では、宇井伯壽以後の近代仏教学は「神話性」を過剰に削ぎ落とし仏教をやせ衰えさせたとの批判が盛んになっている。

 中村元によると、西欧の仏教学者スチェルバツキーは、「仏教は徹底的な多元論(radical pluralism)」としている。ちなみに、スチェルバツキーは、これに続けて、「中論」などの大乗仏教は一元論(monism)であり、「同一の宗教的開祖から系統を引いていると称する新旧二派の間にかくもはなはだしい分裂を示したことは宗教史上他に例をみない事例である」(「仏教におけるニルヴァーナの観念」)としている。


つぎは「輪廻」について。

(呉)輪廻転生を釈迦自体は触れたがっていない気がする。


(宮崎)仏教がウパニシャッド起源の輪廻説を「取り入れた」ことは否定できない。ブッダの教えの力点は現世にあったことは間違いない。

 宮崎は、釈迦が輪廻に否定的だった例証として、初期経典の「テーラガーター」所収の挿話を紹介している。


 仏弟子の長老が盗賊に襲われたが、あまりに長老が落ち着いているので盗賊が「怖くないのか」と問う。
 

 長老いわく

 われには「われが、かつて存在した」という思いもないし、またわれには「われが未来に存在するであろう」という思いもない。潜在的形成力は消滅するであろう。ここに何の悲しみがあるであろうか。


                  「仏弟子の告白 テーラガーター」(岩波文庫中村元訳)

 輪廻の前提である前世も来世も否定している。また輪廻の原因たる潜在的形成力(サンスカーラ)も消滅すると説き、輪廻の虚妄性を述べている。

 さらに宮崎は、輪廻は「仏教によるマッチポンプ説」を紹介する。

 仏教は輪廻を認めているのか、いないのか。この課題は仏教の教義にかかわる第一線の研究者たちのあいだで長きにわたって議論が繰り返されてきた。だがいまだに明確な決着はみていない。少なくとも古代インドでは、仏教が輪廻からの離脱を説き輪廻の無効を主張していることは一貫している。


 それにも関わらず、輪廻が争点となってきたのには理由がある。


 それは仏教が否定する輪廻という主題自体がアジア諸地域にそもそも存在せず、仏教を通して初めて浸透したため、アジアの人々は仏教こそが輪廻を説く当体であるとの理解を抱くようになった。ここには一種の仏教によってマッチポンプ的な事態が引き起こされている。


                 「他者としての仏教」(下田正弘、「南アジア研究第22号」)

 上記は、輪廻について否定的だが、末木文美士は、「仏教は実体的な霊魂は否定するが、輪廻は基本的に認める立場をとっている」(「日本仏教の可能性」)と説明している。学者の間で議論が分かれている証左でもある。

 末木が、死後の生まれ変わりについてアビダルマの理論を紹介していた。これは葬式仏教を考える材料になるので、引用しておく。

 アビダルマの理論によると、人が死ぬと四十九日の間に中有という期間を経て次の生存を受けることになる。四十九日間は、現世と来世との中間期間になるが、本人は死んでいるので善い行いができない。そこで、故人にかわって生きている人がその分善い行いをして、その行いを廻向する、つまり死者の善行として振り向ける。自分の得点を人に与えるような感じで、善行を贈与する。これが廻向の考え方。

 ともあれ、死後四十九日が過ぎれば中有が終わり、当人は次の生存になっているので、理論的には一周忌、三回忌など四十九日以降の法要は根拠を持たなくなってくる。


 これでは、日本のお寺さんは商売あがったりになる。