葬式仏教をめぐる論点整理

 日本の葬式仏教をめぐる論点を「日本仏教の可能性―現代思想としての冒険」(末木文美土、新潮文庫)の説明をもとに整理してみた。

 日本の仏教は、明治維新の際、来世を中心とする江戸時代の葬式仏教からの変化を迫られ、合理的な解釈が求められるようになった。しかし、葬式仏教は「草の根的仏教」として、仏教理論の対象外でしぶとく生き残っている。


 仏教の正統的教理からすると、仏教は実体的な霊魂を認めないので、霊魂の存在を前提とする葬式仏教は認められない。ゆえに、仏教学は、これまで葬式仏教を対象外にしてきた。しかし、仏教は基本的に輪廻を認めており、死後も生前の業を背負って次の生存に移行するとしているので、葬式仏教が仏教的にまったく根拠がないわけではない。


 ここには、「仏教本来の立場は無我、縁起」とする無我論と、如来蔵や仏性といった日本独自の仏教にみられる霊魂実在論との二つの立場がある。

 ちなみに、末木によると、カントの立場は「死後の霊魂は認めても否定しても矛盾に陥るので、純粋理性では論じることは不可能」とのことだ。


 末木は、霊魂の実在の是非をめぐる二元対立ではない次元から、仏教を考えたいと提唱する。それが、「他者論/死者論」だ。

 初期仏教の原理には、他者がいない。縁起も、すべて自分の行為が自分に返ってくる自業自得が原則になっている。


 これを示しているのが、「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」のエピソード。これは、釈迦が悟りを開いた後、どうせ悟りは普通人にはわからないので黙ったまま涅槃に入ろうとしたら、梵天から「教えてくれ」と懇切に三回頼まれて、ようやく釈迦は教えを説くことにしたという内容。つまり、釈迦の悟りには、教えを説くという要因が入っていなかったので、「梵天勧請」という形で「教えを説く」という慈悲の原理を導入しなければならなかった。


 他の人を救済する菩薩は、他者原理を前提としたもので、この展開のうえに大乗仏教が展開していくことになる。


 初期の大乗仏教は、こうした「他者との関わり」との原理を導入して、前述の無我論対霊魂実在論に収まらない形をとっている。

 自己救済から他者救済に向う仏教の流れはよくわかるが、これと霊魂実在論との接続に無理がある気がする。

 末木は、仏教の啓蒙書も含め精力的に著作を出しているが、専門家も含めて手厳しい批判がある。批判の論拠を詳しくは知らないが、仏教文献に関する解釈をめぐってならば、小生には判定する能力がない。ただ、ときどき叙述があらく、論理の揺れを感じることはある。

 葬式仏教に関する関連箇所を少々、紹介しておく。

 
 アビダルマの理論では、人が死ぬと49日間の中有(ちゅうう)と呼ばれる期間を経て、次の生存に移行する。次に何に生まれ変わるかは本人の善行に影響されるが、この49日間は本人が死んでしまっているので善行はできない。


 そこで、故人にかわり生きている人が善行(廻向・えこう)して、その得点を故人に贈ることができる。これが死後49日までの法要につながっていくが、49日以降はすでに次の生存に移行しており、仏教理論上は法要を行う根拠がない。

 33回忌、50回忌などは、生まれ変わったのが寿命の短い生き物なら、すでに「次の次の次」あたりになっているかもしれない。


 こう考えると、墓を含めた追悼の儀式は、生きている人間が死者の記憶をとどめておくための制度と考えた方が納得できる。末木も、ある新聞記事を紹介している。

 墓地は死者の空間ではない。生きているものが、生きているこころで死者を思うための空間が墓地だ。墓があらされたりすると「死者の尊厳が冒された」とひとは怒る。正確にはこれは「死者を思う心が冒瀆された」ということである。


 鈴木隆之、2004年12月10日付け、毎日新聞夕刊

 自分の死は経験できない。ゆえに、死をめぐり、古今東西、ピンからキリまでさまざまな物語が論証不可能な形で語られてきた。末木は、「自分の死」ではなく、「他者としての死者」に、つまり「死者と生者との関係」に問題を限定すれば、有意義な議論ができるのではと提案している。たしかに。


 これに関連して、他者の死と精神病について、興味深い叙述があったので最後に引用しておく。

 渡辺哲夫さんの「死と狂気―死者の発見」(ちくま学芸文庫)によると、統合失調症、以前は精神分裂症と言われていた人たちは、死者との関わりをきちんと築くことができない。死者を死者として秩序の中に位置づけることができない。そのために世界を十分に秩序化できなくて、それが病気という形で現れる。


 これは、刺激的な指摘だ。