仏教の平等観、家族観

「知的唯仏論」紹介の2回目は、仏教の平等観、家族観について。

宮崎哲弥)本来の仏教は社会的平等を説く教えではない。王制も是認している。ただ、四姓制度は否定した。最上層であるバラモンは「生まれ」ではなく「行為」によってなるのだ、とブッダは説いた。「出自の不平等」を否定し、「機会の平等」を支持した。しかし、「機会の平等」は「結果の不平等」を是認することになる。


 この不平等性を問題視したのが大乗仏教、特に浄土教系の論者だった。彼らは、自業自得の「自」を徹底的に否定することで、究極の「結果の平等」を主張した。けれども、この「平等思想」は、阿弥陀如来という絶対神に近い超越的外在性を設定して初めて成り立つ。念仏称名以外の修行道の全否定、世間性の全肯定を導入し、他力浄土門は、初期仏教や自力系の大乗仏教とは懸け離れた教相を呈するようになる。


 日本における鎮護宗教としての仏教を想起する。仏教と政治的支配との親和性にも関連する。ただし、天皇、貴族制度是認と「出自の不平等」否定との関連は、教義上、どうやって折り合いをつけたのか。

呉智英)日本仏教の言いたがらないことのひとつが、ブッダが家族を捨てていることがある。山折哲雄は「ブッダはなぜ子を捨てたか」(集英社


(宮崎)ブッダは、息子にラーフラという「悪魔」を指すという不吉な名前をつけ、捨てている。これは、祖先の否定、家系の滅亡を狙ったものであり、世俗の道徳への反逆である。

 ブッダラーフラ個人を憎んでいたわけではなく、後にラーフラを出家させ、弟子にした。しかし、その結果、シッダールタ直系の血統は途絶えてしまう。

 日本仏教以外の仏教は、いまなお家系だの血統だのにまったく価値を見いだしていない。


(呉)「出家」は「家出」だからねえ。


(宮崎)「父母恩重経」なんていう中国で捏造された儒教色の濃い偽経がいまだに重宝されている日本ではピンと来ないかもしれません。

 法を求めることは、親近者への情愛に勝る。なぜなら「子供や配偶者の存在は自分を根源的な苦悩から解放してくれないから」というわけ。これが仏教の基本的態度だ。まさしく「ブッダは非凡なエゴイスト(呉)」の教えに相応しい。
夫や子供の存在が、自己確立や自己解放に繋がるわけではないとする現今のフェミニズムの主張にも通じるものがある。子連れの夜叉女がわが子そっちのけでブッダの教説に聞き入る挿話は非常に象徴的だ。「ブッダ 悪魔との対話」(岩波文庫中村元訳)


 ただ日本でも鎌倉仏教の宗祖たちは、家族に冷淡。「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」(歎異抄)、「出家は恩を棄てて無為に入る」(正法眼蔵随聞記)

 宗教の家族観は、両義的であることが多い。社会倫理としては家族尊重を説く必要があり、一方で、神や教祖のためには家族を捨てるほどの強度な信仰心が必要とされる。


 キリスト教でも、両義的な家族観がみられる。例えば、マタイ福音書の19章では、夫婦について「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」とある。しかし、同じ章には、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍も(天国で褒美を)受け、また永遠の生命を受け継ぐであろう」と家族を捨てることを奨励しているとさえ思われる箇所がある。ここには、妻が挙げられてないので、妻だけは家族のなかで特別視しているのか。文脈からいくと、やはり妻も含まれていると解するのが自然だと思うが…。