「白川漢字学」論争

 先日、NHK番組「ニホンゴ」で白川静の漢字学を題材にとりあげていた。ここまでおバカ風味にしないと教養番組が成立しないというのも幼児退行期の悲喜劇だが、まあ、行くところまで行くしか道はないのかもしれない。

 白川漢字学の胆ともいえる「口」は呪術に使うハコだとする説を共同通信記者が説明していたが、それを聞いた中国人留学生のほとんどが「まったく納得いかない」と反応していたのには笑った。
執念の独学で文化勲章までとった碩学の説明に、なぜ専門の学者を起用しないのか。この記者は熱心な白川ファンであるかもしれないが、特に説明がうまいわけでもない。なにより学問的な基礎がないので、紹介はできるが、質問を受けることができない。
 
 白川氏の著作は、アカデミズムからは冷たくあしらわれ、一般の読書子からは神さまのように崇められる傾向がある。
この不幸な二極分裂の原点を教えてくれる文章に出くわした。

 今年1月の雑誌「ユリイカ白川静特集に載っていた「両雄倶には立たずー白川静藤堂明保の論争」(高島俊男)だ。白川へのオマージュの諸論が並ぶ中、高島の例によって意地悪な文章が目を引いた。


 高島は、「字訓」、「字統」、「字通」の白川の主著を見たこともないし、他にどんな著書があるのかも知らないと素っ気ない。そして、40年前の藤堂明保白川静の論争を紹介する。

 藤堂の説は、「文学」(岩波書店、1970年7月号)所収の「漢字」(白川静岩波新書)に対する書評からの引用である。

 白川は、漢字の起源を宗教や呪術に結び付ける傾向があるが、藤堂はそれをすべてこじつけとする。

 いちいちの字について、このような推測をもちこまれたのでは、たまったものではない。

 一つ一つ神様や家廟や、さては呪術にかこつけねば気がすまぬという、強引なやり方が全書にわたって現われる。それは主観的であり、個別ばらばらであって、そこには語学で用いるような方法論がない。


 高島は、藤堂の批判を、「白川は、もっぱら漢字の図形ばかりに目を注いで、それが中国語という「ことば」を書き表したものであることに注意していない」と要約する。

 たとえば、高島はこう書く。

 「半」と「斑」は文字の系統はちがうが、音が似ており、同系の語である。
伏は、人のそばに犬がいる。飼い主と飼い犬がぴったりくっついたマンガのようなもの。意味は「ぴったりとくっつく」というのが原義。別に犬でなくてもよい。漢字の形に意味があるのではなく、漢字が表わしている「ことば」に意味がある。


 これに対し、白川は、同年9月号の「文学」で反論を書く。高島によると、白川は、藤堂が漢字を「音をあらわすだけの記号」としかとらえていない点を批判の中心に据えた。
 「漢字がことばの音をしるすだけなら、なぜこれほどの多数の漢字があるのか。単音節語である中国語はもともと百数十の音を持つにすぎず、文字もその数で十分であるはずではないか」(白川)

 高島は、藤堂の主張を「漢字が表わしているのは、ことば(ひとつひとつの単語)であって、図柄は、そのことばの意味の一例を図示したものにすぎない」と要約し、二人の論争は激烈だが噛み合っていないと結論付けている。

 高島は藤堂に軍配をあげている印象を受けたが、高島にとっての「ことば」の定義があいまいであるため、判定の根拠がいまひとつ納得できなかった。

 しかし、表意、表音も含め漢字の解釈は、言語全体への考察について示唆に富んでいる。その意味でも、40年前の論争資料を提示は有益だった。