芭蕉と最上川

先日、久々に仕事抜きの旅で、日本での未踏の地、山形県に行く。東京から上越新幹線で米沢下車。米沢牛を食べて、さらに列車で北上する。大石田で降りて、山間部にある銀山温泉に一泊。翌日は帰路、山形で途中下車して霞城公園近くで芋煮そばを食べて、帰京した。
 
 山形新幹線大石田駅で観光パンフレットを読んでいたら、駅の近くに最上川が流れており、ここで芭蕉が「五月雨をあつめて早し最上川」の句を詠み句碑が建っているという。観光案内所のおばさんに聞くと、「芭蕉ではなく、斎藤茂吉じゃないの」と言われ、「こりゃ、だめだ」とあきらめて地図を頼りに歩き出す。10分ほど歩くと、水量の豊富な大きな川に出た。最上川だ。両岸にそれほど大きな建物がなく、芭蕉が見た風景も大差ないのではと想像してみる。

 上記の句について、「芭蕉の誘惑ー全紀行を追いかける」(嵐山光三郎、JTB)から、該当箇所を引用してみる。

驚くべきは芭蕉の水面すれすれの低い視線であって、紀行文では「水みなぎって舟あやうし」、ときて

 五月雨をあつめて早し最上川

 の句が示される。この自在の躍動が、紀行の醍醐味というもので、幕を切って落とされた句の展開には、ドキュメント映画に似た生の呼吸がある。言葉が最上川の波しぶきと一体となって飛び散るのだ。さらにすすむと、目線は天高くのぼって、「暑き日を海にいれたり最上川」と俯瞰する。

 「海に入れたり」か。両句とも、雄大さを描写する力業に感心するが、さらに、嵐山が指摘するように、「雄大さ」を描写するのに、一方は対象に接近し、他方では対象を天空から見下ろす。視点の大胆な転換。すごい。

 嵐山の上掲書には、芭蕉について興味深い指摘があったので、以下、紹介する。

芭蕉は危険人物である。悟ってはいない。・・・植物の芭蕉といえばバナナであり、自分の俳号に、当時は新規な植物であったバナナと号してはばからぬ新しい物好きである。そのことをまず頭にたたき込む。もとより「枯れた風流人」なんぞではない。芭蕉は…一面の人ではなく、多面体である。

(「奥の細道」の出発にあたっての句である)「草の戸も 住替(すみかわ)る代ぞ ひなの家」は、「行春や」と同じく、地の文で謳いあげた甘美な幻想を打ち消すという、芭蕉でなければできない芸当である。
売り払った庵に、新しい家主が住んでそこに娘の雛人形が飾られている、という衝撃、がある。はなやかであったものが滅びるのではなく、滅びていたものが派手に変貌する「反転した孤絶感」がある。

 「奥の細道」の旅は芭蕉が46歳の時で、150日間をかけて2400キロを旅した。作品として完成したのはそれから5年後。現代風にいえば、400字詰め30枚足らずの分量を5年もかけて推敲している。そして、完成させた年の10月に数え年51歳で亡くなっている。

 列車の時間が迫っていたので、そろそろ駅に戻ろうと川に背を向けたら、先ほどの観光案内所のおばさんがこちらに向かって歩いてくる。

 「あのあと調べたら、あなたがおっしゃるように芭蕉さんでした。句碑もありますよ。あそこです」と、少し離れた場所を指さして教えてくれた。「時間がないので」と丁寧にお断りして、駅に小走りで向かった。久々に基準を超えた親切心に出会った。こういう状況で、一句詠めない自分の非才がなさけなかった。

※写真は、悠然と流れる最上川