オヤジが逝った

 現在地、パリ。ホテルからオペラ座まで散歩するが、土曜の早朝とあって人通りがほとんどない。浮浪者が二人、路上で倒れるように寝ていた。オペラ座の前には南京虐殺を題材にした映画の看板があった。この映画は、日本では上映されないだろうな。四日間で伊仏三都市を仕事で動き回り、今夕帰国する。年々、時差ぼけがひどくなる。

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 今年の春はこれから何度でも振り返ることになる春になった。日本の北を津波が襲い3万人が犠牲になったこの三月、日本の南では一人の老人が息を引き取った。享年87歳。私のオヤジだ。

 2月末に入院した時、すでに前立腺ガンが肺と肝臓に転移しており、3月29日に亡くなった。並外れた無口で社交嫌い。オヤジに私用の電話がかかってきたことは一度も記憶にない。海軍技術将校あがりのエンジニア。自転車から家電製品まで購入すると全部分解して自分で組み立てなおしていた。オヤジにとって「分解・組み立て」は「理解」と同義だった。家には小説などの文芸書は一冊もなく、休日は日曜大工か尺八を吹いて過ごしていた。

 80歳をすぎても母親を後ろに乗せバイクに乗り、当時私が住んでいたロンドンに遊びに来たこともあった。今回の入院は旧制中学の盲腸以来で、健康な一生だった。

 入院して死期を悟ったのか、葬式の段取りと関連書類の場所を母親に細かく指示していた。迫る死に対し怖れや動揺を見せることはなかった。下戸なのに、亡くなる3日前にはよく聞き取れない声で「最後に祝いの酒を飲みたかねえ」と、堅物に似合わないしゃれたセリフを残して、逝ってしまった。

 親の最後の仕事は、死に様を子供に見せることだという。その意味では、立派な仕事を見せてもらった。喪失感は予想を超えて深いが、その反面、死が恐怖の対象ではなく、「死は日常の一部である」ことを実感できた。「次はオレの番だ」とも思った。アラカンも近い年齢になって、オヤジのおかげで、少し大人になった気がした。

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 これまで、ブログで私事をそのまま書くことは避けてきた。ただ、「肉親の死」は私事であり、私事ではない。さらに、この一か月、「オヤジの死」以外のことを書こうとしても書けなかった。呼吸をするように「読み書き」を続けていくために、どうしても「私事」を書かなければならなかった。ご容赦あれ。