礼の効用ー"as-if"world
『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』(マイケル・ピュエット、早川書房)紹介の続き。
儒学の「礼」といえば、堅苦しく、融通が利かない儀礼と思いがちである。
ところが筆者は、こういう。
ばったり友人に出会った。
「やあ、元気?」
「うん、元気だよ。そっちは?」
たったこれだけの行為が、二人を束の間、結びつける。
私たちは話す相手によって挨拶を使い分け、質問の種類を選び、声のトーンを変える。たいていは無意識にやっている。
孔子は、こうした日常的な行為が<礼>になりうるという。孔子は礼という言葉を新しい挑発的な意味で用いている。
祖先供養の例があがっている。
「論語」に祖先祭祀についての問答がある。孔子によると、この儀礼はなくてはならないものだが、死者の霊が臨在するかどうかは問題ではない。孔子は説く。「祭るときは、霊が目の前にいるかのようにすることが大切だ。重要なのは祭祀に本式に参加することだ」
「祭ること在(いま)すがごとくし、神を祭ること神在(いま)すがごとくす」(論語・八佾第三)
We sacrifice to ancestors, as if they are there.
ハーバードの先生は、こう解釈する。
生前仲が悪かった父が亡くなった。亡くなれば和解の可能性は消える。しかし子が、父の葬儀を礼に従ってきちんと行えば、まるで理想的な親子関係であったかのような、新たな関係を築ける儀礼空間へ移行できる。そこから、生者は父のまっとうな子孫であるかのように振る舞う。生前の負の感情も薄らぐ。
孔子にとって、儀礼行為が本当に死者に影響を及ぼしているかどうかを問題にすることは的はずれだ。儀礼行為を行う生者の側に影響を及ぼすことに意義がある。
つまり、そして儀礼の効用は、こうなる。
儀礼は現実の世界でどう振る舞うべきかを教えてくれるわけではない。寸分の狂いもなく秩序が保たれた儀礼の世界が、欠陥のある現実の人間関係の世界に取って代わることはあり得ない。儀礼が効果を発揮するのは、それぞれの参与者が普段担っている役割とは別の役割を演じるからだ。この現実からの「離脱」こそ、人間関係の修繕をはじめるための鍵だ。
孔子のいう礼には、少しの間、私たちを別人にしてくれる。礼は束の間の代替現実を作り出し、私たちはわずかに改変されたいつもの生活に戻される。ほんの一瞬、私たちは<かのように>の世界に生きることになる。
Rituals –in the Confucian sense-are transformative because they allow us to become a different person for a moment. They create a short-lived alternate reality that returns us to our regular life slightly altered. For a brief moment, we are living in an “as-if ”world.
礼とは、善導への自己変革のテコになる。半信半疑ではあるが、魅力的な解釈ではある。
A ritual allows you to construct a new life.
ちなみに、孔子を扱ったこの3章の題は、「毎日少しずつ自分を変えるー孔子と<礼>と<仁>」。なんだか安手の自己啓発本のノリだ。そうした要素がないとは言わないが、啓発本にとびつきそうな層をねらった、日本側の編集者の志の低さが露呈している。そのせいで多少、売れたかもしれないが、反面、この著者の「本来の読者」をかなり逃がしている気がする。