學而時習之、不亦説乎

 儒学といえば、かつて、プロ中のプロの講師の下で、朱子の「論語集注」を数年かけて読書会で読み上げたことがある。このブログでも以前、内容をいくつか紹介したことがあるが、今回の読書にあたり、久々に当時のブログ記事を読み返してみたら、「儒学の現実主義」についての関連個所がいろいろあったので再録する。重複にはなるが、「学びて時に之を習う、亦た説(よろこ)ばしからずや」(「論語」冒頭)ということで、お許しあれ。

 儒学には「あの世」がなく「この世」だけしかない。そこで、「正しいことをして『この世』が滅んでも仕方がない」との原理主義は出てこない。また、この儒学的観点からは、「この世」で良いことをすれば「あの世」でその褒美が待っている、との考えは不純であるとされる。

 

 論語には「恥」が17回も出てくる。儒学では「あの世」がなく、「この世」での悪事が「あの世」で罰を受けることはない。倫理の土台は、「恥」の感覚に依拠している。いわば、「羞恥心が支える道徳」といえる。
 キリスト教の「罪」は、いつも自分を見ている神に対して感じるもの。ルース・ベネディクトは「菊と刀」で、東洋の「恥」は他人の目を基準にしているが、欧米の「罪」は内面的なもの、としているが、これは間違い。儒者にいわせれば、キリスト教は、「この世」の善悪を「あの世」での損得を基準に考えており、功利的で下品である、となる。「恥」を倫理的基礎としているのは、世界的にも珍しい。
 ただ、日本の武士における「恥」は、ちょっと違う。武士にとっての「恥」はモラルの重要な基準だが、これはあくまでも身分的名誉感であり、百姓町人は対象外。もし、幕末に江戸で幕府と薩長が武力衝突をしても、武士は「逃げるのは恥」なので戦うだろうが、町人はさっさと逃げ出しただろう。儒学的な「恥」は、「道」と同じく普遍性があり、「人間ならだれでも恥ずかしい」ということ。


ここから、儒学にとって「この世で正しく生きること」が一番大事ということになる。それでは、そのために歩まねばならない「道」とはなにか。

「邦、道無きに穀するは恥なり」(「論語・憲問第十四」)
(官吏として仕える国家に道がなければ、俸禄をもらうのは恥である)

 コウシ(講師)いわく、

 何か個別の仕事を極めることは儒学における「道」ではない。儒学では、専門の自己目的化を評価しない。玩物喪志。日本では、一生をかけて工夫しながらいつか完全なXを作ろうと努力している職人を「X道を一筋に歩む者」として称賛するが、これは儒学的評価には値しない。例えば、中国語では「書道」といわず「書法」という。「道」は専門家ではなく、だれにとっても大事なもの、普遍性がある。身分的倫理である規範に「武士道」などと「道」をつけるのは、ありえない。


 田中優子による「日本政治思想史 十七世紀―十九世紀」(渡辺浩、東京大学出版会)の書評も再録したい。

 この本は、儒学が江戸時代を作り上げただけでなく、日本の近代化をももたらしたものだ、と述べる。なぜなら儒学者は「超越的人格神など無しで、欧州の急進的啓蒙哲学者のように、何よりもnatureに依拠して、壮大な倫理と政治の哲学体系を構築しよう」としたからである。

 武士は戦国時代や江戸初期にあっては忠誠心もなく、喧嘩を売り、乱暴狼藉を働いていたヤクザのような人たちだった。そこに、「勇猛な武士の概観と平穏な秩序を両立させる種々の行動様式」を形成していったのであって、それが「偽装としての武士道」であった。それは「武士らしさを偽装」する「真剣な演技」だった、という論理はまことに納得する。
 武士道というものがあたかも実体としてもあったかのように語られる今日、この戦争しない武士たちによる「らしさの演技」を確認することは重要だ。


 超越的人格神に依存しない考え方は、ともすれば目の前の現実に依拠して右往左往する現実追随主義になる。しかし、儒学は現実改革をめざす現実主義をめざす。風船子の私見では、

 儒学のキモは、「現実に屈しない現実主義」にあり