適者生存戦略としての弱者保護

 先日、yahoo質問箱をのぞいていたら、秀逸な回答にぶつかった。

 社会的エゴまるだしの言説が「本音」として喝采される「幼児的倒錯」(幼児に失礼かも)が、ネットの世界で蔓延している。この回答は、そうした風潮への反駁としてかなりの高レベルだと思う。教科書的に人権問題として反論すれば、よくある「幼児的反発」を招いたことは容易に想像できる。自分の学知を相手の理解度にあわせて調合する大人としての能力に感心した。ネットに住む「匿名の賢者」に賛辞を贈りたい。この回答への閲覧数が150万を超えていたことにも驚いた。ちょっと長いが、お付き合いのほど。

yahoo質問箱

◆質問
不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。
自然界では弱肉強食という言葉通り、弱い者が強い者に捕食されます。しかし、人間の社会では何故それが行われないのでしょうか?原始時代は、種族同士の争いで強い種族が弱い種族を殺していましたが、今日の社会では弱者でも税金を使って生存を助けています。優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。


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◆ベストアンサーに選ばれた回答
mexicot3さん
2011/6/118:19:42

 え〜っと、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません。弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません。虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています

 自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です。
 個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます。全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます。個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません。ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです。

 種レベルでは「適者生存」です。
 この言葉は誤解されて広まっていますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません。「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです。
(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味でなく「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)
 そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです。必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります。多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの…あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通りです。

「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係ありません。そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味でなく、「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ありません。
 10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります。

 「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります。

 そして、人間は生存戦略として「社会性」を採用しました。 高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する。個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、という戦略です。
 どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します。人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました。生物の生存戦略としては大成功でしょう。
 (生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)

「優秀な遺伝子」ってものはないんですよ。
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です。
遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です。
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になっているかもしれません。 だから、可能ならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となります。
 (「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)

 アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね。ということは、「社会」というものがないナマの自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです。その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです。

 だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです。「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです。

 我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンス生存戦略だということです。