ノーベル賞インタの悲喜劇

ノーベル医学生理学賞を日本人が受賞した。各テレビが順番に行う受賞者インタビューが正視に堪えない。業績についてまったく理解できない聞き手が、歯の浮くような祝辞を繰り返し、中学生でもできる定型中の定型であるお決まりの質問を繰り返す。当然、自然科学系の研究者は、サイエンスと真逆の世界に住むこうした人間たちに当惑する。それでもそこは日本の社会人。なんとか相手が許容してくれるような定型的な回答を、混乱した頭のなかで必死にさがす…やっぱり見ちゃいられない。

先日読んだ村上春樹の『職業としての小説家』のなかに、こんなくだりがあった。

賞と名の付くもの、アカデミー賞からノーベル文学賞に至るまで、その価値の客観的裏付けなんていうものはどこにもない。ケチをつけようと思えば、いくらでもつけられる。ありがたがろうと思えば、いくらでもありがたがれる。

レイモンド・チャンドラーはある手紙のなかで、こう書いています。「あまりにも多くの二流作家にノーベル文学賞が贈られている。だいたいあんなものを取ったら、ストックホルムまで行って、正装して、スピーチをしなくちゃならない。ノーベル文学賞がそれだけの手間に値するか?断じてノーだ」”

“僕は、賞関連のことを質問されるたびに「何より大事なのは良き読者です。どのような文学賞も、僕の本を身銭を切って買ってくれる読者に比べれば、実質的な意味を持ちません」と答えることにしています。でも、ほとんど誰も僕の言い分に本気で耳を貸してくれません。”

芥川賞をもらわなかったせいで得したことも、別になかったような気がします。ただひとつ、自分の名前の横に「芥川賞作家」という「肩書き」がつかないことについては、いささか喜ばしく思っているところがあるかもしれません。今の僕にはそれらしい肩書きが何もないので、身軽というか、気楽でいいです。ただの村上春樹である(でしかない)というのは、なかなか悪くないことです”

まあ、厭味ったらしいともいえるが、気持ちはわかる。村上春樹ノーベル文学賞を取ったら、どう対応するのだろうか。