栄養あるソーメンと春樹エッセイ

 今日から10月。月替わりで気分を替えて、久々の書き込みです。

 ちょっとした気まぐれで、書店で「職業としての小説家」(村上春樹新潮文庫)を購入した。ハルキは、以前は新作が出るたびに読んでいたが、「海辺のカフカ」あたりで「ちょっと虚構の濃度が薄くなってないか」と感じ、それ以降の長編小説は読んでいない。ただ、彼のエッセイは、食欲のない時の素麺のように、スルスル、ツルツル、気持ちよく体に入ってくる。

僕にとってエッセイというのは、あえて言うならビール会社が出している缶入りウーロン茶みたいなもので、いわば副業です。本当においしそうなネタは次の小説=正業のためにとっておくようにします。

著者としてはそうでしょうが、時にはサントリービールより、サントリーのウーロン茶の方が好きな消費者もいるということです。ただ、著者の名誉のために言うと、食べやすいだけでなく、栄養もある(気がする)。エッセイを読んでいると、こちらも何か書きたくなる。
そうか。だから、久々にブログを書きたくなったのか。tks。

少なくない数の文芸評論家は…頭の回転が速すぎるのです。つまり物語というスローペースなヴィークル(乗り物)に、うまく身体性を合わせていくことができないのです。だから、テキストの物語を自分のペースに翻訳し、その翻訳されたテキストに沿って論を興していくことになります。

神宮球場の外野でヤクルト対広島戦を観戦、1回裏にヤクルトの1番ヒルトンがレストに二塁打を打った。その瞬間、何の脈絡もなく「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と啓示が走った。Epiphany

既成の文学ではなく、感じたことを自由に書きたい。

でもどうやって?

試しに不十分な力しかない英語で小説を書き出してみた。限定された単語と構文で書くしかない。すると不思議なことに自分なりの文章のリズムができてきた。今度はそれを日本語に翻訳してみた。

翻訳といっても、がちがちの直訳ではなく、どちらかといえば自由な「移植」に近いものです。するとそこには必然的に、新しい日本語の文体が浮かび上がってきます。それは僕自身の独自の文体でもあります。まさに、目からウロコが落ちる、というところです

僕が求めたのは「日本語性を薄めた日本語」の文章を書くことではなく、いわゆる「小説言語」「純文学体制」みたいなものからできるだけ遠ざかったところにある日本語を用いて、自分自身のナチュラルなヴォイスでもって小説を「語る」ことだったのです。

職業小説家として長い間、創作活動を続けるために必要なことは?

僕の答えはただひとつ、とてもシンプルなものですー基礎体力をつけること。逞しく、しぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の体を味方につけること


どうでもいいことだが、以前、クッツェーの「恥辱」を読んでいる最中に、彼がその年(2003年)のノーベル文学賞に選ばれて驚いたことがあった。ひょっとして…