危険思想としての儒教

 おなじみの論語学習会の「講師曰く」シリーズ。


 講師曰く、「私が徳川家康だったら、儒教は禁止しましたね。だって危険思想ですから」

 
 孔子曰く、天下道あれば則ち礼楽征伐天子より出づ。天下道なければ則ち礼楽征伐諸侯より出づ。諸侯より出づれば、蓋し十世失はざること希なり。

                                    「論語・季氏第十六」


(天下に道があって君臣の義が乱れない時は、礼楽も征伐も天子の意志から出る。臣下は天子の命を受けてこれを行うに過ぎない。天下に道がなくて君の権力が衰え、臣下の勢力が強くなると、礼楽や征伐は諸侯から出るようになる。諸侯から出るのは道に外れてるから、十世でこれを失わない者は少ない。  「論語新釈」宇野哲人講談社学術文庫

 「天子」を天皇、「諸侯」を武士だとすれば、武家政権は正統性(=道)がないことになる。こうした儒教の君臣観が、幕末の尊王思想につながっていく。


 これに対する徳川幕府側からの反論は、「鎌倉や室町の武家政権に比べれば、徳川は、京都(朝廷)を大切にしている」あたりだったという。

 「安定した統治」を重視する儒教的観点からは、「徳川幕府は、長期的な平和と安定をもたらし、人々は国恩にあずかっている」との幕府擁護論も可能だった。ただ、これはあくまでも安定した秩序が前提とした正当化であり、幕末期の動乱期には、逆に「世の乱れは政治が正道に反しているからだ」とマイナスに反転する。

 国粋思想の核にある天皇崇拝が、中国の儒教に支えられていた側面があることに留意しておきたい。

 
 それにしても、一世を30年とすると、十世で300年となり、「徳川300年」とぴったり符合する。徳川政権の寿命を孔子が予言した?

 
 さて、儒教の現世主義についても、講師いわく、


 儒教には「あの世」がなく「この世」だけしかない。そこで、「正しいことをして『この世』が滅んでも仕方がない」との原理主義は出てこない。また、この儒教的観点からは、「この世」で良いことをすれば「あの世」でその褒美が待っている、との考えは不純であるとされる。

 ともあれ、儒教にとって「この世で正しく生きること」が一番大事というのが基本になっている。

 追記:徳川時代の代表的な朱子学者である新井白石は、将軍家宣を相手にした政治史の講義録「読史余論」で、天皇武家政権との関係について以下のように述べている。

 故もなく、皇威の衰え、武備の勝ちにけると思へるは過なり。中世よりこのかた、喪乱の際、義を思い、力をつくし死を致すは、ただ武人のみ。されば天道は、天に代り功を立てる人に報うのが理なれば、武家の世になるのは故ある事とぞ覚える。


 乱世に命をかけて義を実現させたの武士だけだったので、武士に世を治めるようにしたことも天理にかなうことだという論法で正当化した。つまり、天命は天皇ではなく、武家政権に与えられていることになる。


 さらに白石は、「後醍醐中興の政、正しからず」として、後醍醐天皇の改革がひどいものだったので天が天皇親政を見放したと指摘する。

 建武三年十二月、後醍醐吉野へ奔り給いき。これより吉野殿を南朝といい、武家の共生を北朝と申せり。…さらば北朝は、まったく足利殿自らのためにたておきまいらせし所にて、正しき皇統とも申しがたければ、或いは偽王朝なども其代にはいいしとぞ見えたる。

 北朝は後醍醐に対抗するために足利尊氏が支援した「武家の共生」にしかすぎない、と白石は断じている。


 白石は「折たく柴の記」では、「北朝は、もとこれ武家のためにたてられぬれば、武家の代の栄をも衰をも、ともにさせ給うべき御事」として、武家天皇家は、栄華盛衰を共有するとも述べている。ちなみに、現在の天皇家北朝の系譜を引いている。

 
 白石(1657−1725)は江戸中期の人物。この時期は、儒教的観点からは、上記のような論理で「武家政権での天皇との共存」が正当化されていた。天皇を「天子」とする立場からは、受け入れがたい論理ではある。この反発が幕末に表面化することになる。