沢木耕太郎、「風立ちぬ」にハラタチヌ

 今日は、映画「風立ちぬ」の否定派による映画評を紹介する。

 著者は、沢木耕太郎。沢木は、通常、長所、短所の双方を考慮するバランス派だが、今回は異例とも思えるマイナス一色の酷評ぶり。評論として納得する部分もあるが、怒りの感情が先に立っている印象が強い。沢木らしくない。大きすぎた期待が裏切られてぶち切れたのかもしれない。引用元は、9月27日付け朝日新聞夕刊。

 試写会で観たあと、上映館でもういちど見る。


 試写室で見たときと同じ感想を抱いた。やはり、これは宮崎駿の作品ではない、と。


 (飛行機に憧れゼロ戦を生み出す要素と、病気の令嬢との恋を実らせようとする要素)の二つの要素は、映画の中で有機的な融合がされていない。問題は、主人公が昇るべき「物語の階段」が存在しないというところにあった。


 これまでの宮崎駿の主人公たちは、父の無念をはらそうとする少年も父母を魔界から取り戻そうとする少女も、自分自身の「物語の階段」を徐々に昇っていった。彼らは、その「物語の階段」を昇り降りすることで「成長」していくことになる。しかし、「物語の階段」を持たない二郎は、外貌が変化するだけで本質的な「成長」を遂げることがない。この映画には、険しい山もなければ、深い谷もない。「バリアフリー」化されてしまった室内のように「段差」が存在しないのだ。


 この「バリアフリー」化に輪をかけたのが、主人公の声である。主人公の声に物語の帰福を生み出す力がなかったため、ますます「風立ちぬ」は平坦なものになった。


 私は「風立ちぬ」は宮崎駿にもう一本撮らせるために存在する映画だと思った。なぜなら、これは新しいものを生み出した作品ではなく、かつてあったものが失われた映画だったからだ。

 アニメ映画監督の庵野秀明がやった主人公の声については、たしかに違和感を持った。「感情を抑えた口調」と「素人の棒読み」は、時に似ることもあるが、これはまったく別物。「トトロ」の時の糸井重里を思い出した。

 「風立ちぬ」は、「飛行」が重要な要素になっている点ではこれまでと同様だったが、確かに作品の方向はこれまでの宮崎作品の延長上にはなかった。ただ、その相違を持って「失敗作」であると断じるのはどうかとも思う。

 「物語の階段」がない名作は、映画でも文学でも山ほどある。今回の作品を成功作とは思わないが、宮崎作品としての「新しさ」は感じた。最後の作品で、「集大成」ではなく「新しさ」を求めた宮崎監督のチャレンジ精神は評価したい。