徳川幕府は朝廷だった!

◆日本史用語の背景

 歴史を語る際、われわれは多くの歴史用語を何気なく使っているが、当時の人たちが使っていなかった用語も多い。それぞれの用語が定着するには、それなりの歴史的理由があった。今回は、大河ドラマ龍馬伝」で頻繁に登場する「幕府」、「朝廷」、「天皇」、「藩」を対象に、用語としての背景をみてみる。

 ネタ本は「東アジアの王権と思想」(渡辺浩、東京大学出版会)です。

「幕府」
 
 一般には、徳川幕府のように武家政権の意味に使われる。しかし、家康をはじめ歴代徳川将軍は、自分の政権を「幕府」と称したことはない。鎌倉、室町も同様である。

 近衛大将唐名として古くから「幕府」の語はあったが、一般化させたのは後期水戸学だった。後期水戸学は、徳川政権があくまで京都の御門から任命された「将軍」の政府であることを強調するために、「幕府」の語を頻繁に使用した(藤田幽谷「正名論」、藤田東湖弘道館記述義」)。つまり、徳川政権を軽くみる政治用語として尊王攘夷派によって多用された。それが幕末の倒幕の流れのなかで急速に普及していき、天皇中心史観の明治政府のもとで教育を通じて「幕府」は歴史用語として完全に定着した。

 この意味で、「幕府」とは、皇国史観の一象徴にほかならない。
 
 ちなみに江戸時代、徳川政権に対するもっとも普通の呼称は、「公儀」だった。


 なるほど。「幕府」という語は中立的な用語ではなく、水戸学的な京都の朝廷優位の解釈を反映したものだったわけだ。
その「朝廷」だが、これも「天皇の政治組織」を意味しているだけではない。


「朝廷」

 藤田東湖は、「弘道館記述義」のなかで、「無識の徒、或いは幕府を指して「朝廷」といい、甚だしきは「王」を以てこれを称す」と嘆いている。つまり、逆にいえば、江戸時代には、徳川政権がしばしば「朝廷」と呼ばれていたことになる。これは室鳩巣、荻生徂徠佐久間象山など、文献的にも実証される。

 ちなみに江戸時代、一般的な呼称は「禁裏」、「禁中」だった。

 これを受けた一文は、正確に渡辺論文から引用しておく。

「朝廷」といえば、当然京都にあり、江戸にあったのは「幕府」だったという通念が、実は水戸学的であり、「近代的」なのである。水戸学に同情的でもない歴史家が「近世の朝幕関係」を論じたりするのは、いささか奇妙ではあるまいか。
 「前掲書」p7

 次は天皇


天皇

 13世紀から18世紀末までの日本には、ある意味で、天皇は存在しない。順徳天皇(1210即位)から光格天皇(1779年即位)の謚号(しごう)が復活するまで、「天皇」の号は、生前も死後も正式には用いられなかったからである。彼等は、在位中は「禁裏(様)」、「禁中(様)」、「天子(様)」などと呼ばれ、退位後は「仙洞」、「新院」、「本院」など、没後は「後水尾院」などと「院」をつけて呼ばれた。
 
 すべての「院」たちが「某々天皇」と呼び換えられたのは1925年(大正14年)のことである。

 「前掲書」p7―p8

 おしまいは「藩」です。

「藩」

「藩」の語は、江戸時代には公式用語ではなく、明治2年の版籍奉還から2年後の廃藩置県までの間、公式名称であったにすぎない。一般化したのは18世紀半ば、荻生徂徠が愛用して以降である。「御家中」から「藩」への用語移行は、「主君に仕える武者」から「藩に勤める役人」への変身が、その背景にある。