日朝始祖論と論語
今回の「論語集注」(朱子)学習会では、「微子第十八」を読む。
微子は之を去り、箕子(きし)は之が奴と為り、比干は諫めて死す。孔子曰く、「殷に三仁あり」
訳:微子は祖国を去り、箕子は奴隷となり、比干は諫めて死んだ。孔子は「殷王朝には三人の仁者がいた」と言った。
殷王朝の王であった紂は暴君であり、王朝を滅亡に導いた。微子は紂の兄、箕子と比干は紂のオジであり、三人とも紂に諫言した結果、上記のような運命をたどった。孔子も朱子も、「ただ去るだけ」と諫死との間に格差をつけていない。儒教では、君主が間違っていると判断した臣下は盲従せずに諫言をしなければならない。
子路、君に事(つか)へんことを問ふ。子曰く、「欺くことなかれ。而して之を犯せ」。(憲問第十四)
それでは、暴君が諫言を無視すれば、そのままにしておいてよいのか。孔子は明言していないが、孟子は、「王殺しは良くない。しかし、悪王はすでに王ではなく一人の男にすぎない」との論法で、「暴君、倒すべし」と明確に主張している。
これは過去記事を参照。
http://d.hatena.ne.jp/fusen55/20111218/1324196853
さて、「三仁」のうちのひとり、箕子についての講師の解説が面白かったので、自分で調べた内容も加えて概略を紹介してみる。
箕子は、『史記』によれば、殷を滅ぼした周の武王に崇められ、朝鮮半島に領土を与えられ朝鮮最初の王朝、箕子朝鮮を興したとされる。儒教の正統な継承者を任じていた歴代の朝鮮王朝では、孔子から論語で「三仁の一人」と認定された人物を始祖と仰げることは大きな名誉であり、箕子は神格化されていた。
しかし、近代のナショナリズムの高まりとともに、朝鮮王朝の創始者が中国人であることへの反発が強まり、朝鮮民族の始祖は太白山(現・白頭山)に天神の子として降臨した檀君との説が広まり、現在でも檀君始祖説が韓国の歴史教科書に載っているという。
ただ、中国社会科学院では、「箕子の存在は殷代の甲骨文字と前秦の記録から確認されており、中国人である箕子が中国にとっての朝鮮半島での最初の地方政権を建てた」と朝鮮王朝漢人創始説を強調している。
これと同じような事態が日本でも起こった。
江戸時代の儒者は、儒教世界のスター箕子が朝鮮王朝の創始者であることへの羨望が強かった。これを受けて、「魏略」、「晋書」など中国の歴史書に「倭人は呉の太伯(泰伯)の子孫と名乗っている」との記述があることから、泰伯が中国から日本にわたり天照大神になったとの説を説いた。
この泰伯について「論語」はこう記述している。
子曰く、泰伯は其れ至徳と謂うべきのみ(泰伯第八)
(孔子いわく、泰伯は最高の美徳の持ち主というべきだ)
泰伯は周国君主の長男だったが、君主は三男を後継者にしようとの君主の意向を尊重して、二男と共に南方に身を隠したと伝えられており、孔子は、この「国譲り」の行為を高く評価した。
江戸時代の儒者たちは、箕子朝鮮への対抗心もあったのか、「孔子から『至徳』のお墨付きをもらった泰伯がわが始祖である」と誇らしげに主張した。「泰伯=天照大神説」は江戸時代にかなり広まったが、明治時代の国粋主義強化による天皇絶対化の流れの中で「タブー」として消し去られたという。
かくのごとく、儒教をめぐっても東アジアの歴史は入り組んでいる。