エル・グレコをアタマで観る

 上野で「エル・グレコ展」、「円空展」、「ラファエロ展」をはしごする。おまけに最後の西洋美術館では常設展一周で締めたので、さすがに足にきた。


 いずれも、いろいろ考えさせられた。このうちエル・グレコはトレドでかなりの作品数を観たこともあるが、個人的には苦い味の液体を飲まされたような気分になり、積極的に観たい画家ではない。ただ、そうした気分を引き起させる力を持っている点にこそ、エル・グレコの特質があるとも言える。

 エル・グレコといえば、マニエリスム。この道の第一人者、高山宏マニエリスム論の要旨を紹介してみる。出典は、「近大文化史入門―超英文学講義」(高山宏講談社学術文庫)。

 一つにまとまっていると思われていた世界が、戦乱などの大きな混乱や経済の拡大による急速な拡張などで、個人個人が孤立感を深めていく。そうしたバラバラになった世界を前に、バラバラを虚構の全体の中に「彌縫」しようとする知性のタイプがある。それがマニエリスムだ。16世紀の初めに現れ、一世紀続いたとされる。

 「迷宮としての世界」(グスタフ・ルネ・ホッケ)は、1527年の「ローマ劫掠事件」がルネサンスの画家たちを発狂させ、パルミジャーニーノのような奇想の画家を生んだと説明する。


 この状況は、世界戦争、グローバリゼーションの20世紀と同じで、20世紀もマニエリスム向きの時代である。
 

 1520年代、ダヴィンチの死で前期ルネサンスは終わり、後期ルネサンス、あるいは「夜のルネサンス」(エウジェニオ・バッティスティ)が始まる。この時期をマニエリスムの時代と呼ぶ。

 
 明察の参考文献は、「芸術と文学の社会史」(アーノルド・ハウザー、平凡社)、「ルネサンス様式の四段階」(ワイリー・サイファー、河出書房新社)。

 マニエリスムの特徴は、合理的には絶対につながらない複数の観念を、非合理のレベルでつなぐ超絶技巧にある。だから、マニエリスムが1920年代のシュルレアリスムによみがえるという発想には説得力がある。


 マニエリスムを日本では美術の様式史に限定する方向で収めてしまっている。マニエリスムは内容よりも形式の遊びであり、コンピューターソフトを作る若者たちもマニエリストなのである。マニエリスムは一回きりの美術史的現象ではまったくない。

 高山によるシャークスピア文学へのマニエリスム的解釈もなかなか刺激的だった。マニエリスムは20世紀になって「発見」された概念である。

 目ではなく、アタマで絵を観る。よいではないか。

 
 ところで、エル・グレコ展の最大の目玉作品は、巨大な祭壇画「無原罪のお宿り」。これは、イエスを生んだマリアは、性交の結果として生まれた、つまりアダムとイブ以来の原罪を負った人間ではなく、天上界から使わされた原罪なき人間であるというカトリックの教義をテーマにした作品。これはマリア信仰の進展が生んだ新しい教義(バチカンの公認は19世紀半ば)で、ロシア正教やほとんどのプロテスタントは教義として認めていない。


 エル・グレコは方法的には人体のイビツなプロポーション表現という反伝統的な手法をとったが、内容的には宗教改革の時代に「守る」側のカトリックの側で伝統保守の役割を果たした。


 作品の前には、子供向け(チューサン<中三>階級、いや、小三階級レベル)の解説文があるだけ。キリスト教的背景について、せめて高三階級レベル程度の解説はほしいところ。アタマで絵を観る快感にあまりに鈍感すぎる。

 アタマも感じるんだぜ