朱子学的理想主義の結果的リアリズム

 久々に「論語集注(朱子)読書会」報告です。今日の範囲は、論語の「憲問第十四」。
例によって、講師曰く…

 「正しいことをすれば、結果は後からついてくる」という、「信条倫理」が朱子学の基本にある。一見、非現実的にみえるが、結果を気にして方針がぶれることがなく、結果的にうまくいくことが多い。

 日本の儒者は、この態度を「非現実的」と冷笑する傾向があるが、日本の儒者のほとんどは現実政治と縁のない学者。一方、中国の儒者は、現実政治と深いかかわりのある官僚層が中心で、日本よりも現実的対応に迫られていた。


「理想主義に不可避に内在する現実性」とでもいうところか。

 子路、君に事(つか)へんことを問う。子曰く、欺くことなかれ、而して之を犯せ


 (子路が君に仕える道を問うと、孔子は「君をあざむくな。君が嫌な顔をして怒っても構わずに諫めなさい」


 儒教は厳格に上下の身分道徳を説く、といわれる。確かに君主殺しは大罪。しかし、臣下が君主に意見をするのは臣下としての重要な責務だとして、「ごますり部下」を否定している。

 儒教を忠実に守ろうとした朝鮮王朝では、臣下がやたらと王様に諫言して、王様はたいへんだった。しかも、諫言の内容が臣下により違い、その違いをめぐって臣下同士の殺し合いにまで発展したこともあった。

 日本でも諫言の重要性はしばしば説かれるが、「長いものに巻かれろ」は現代に至るまで組織内処世の土台になっている。「できないからこそ繰り返し説かれる」といったあたりか。いささかトホホではあるが。


 日本における「君主への忠節」で、講師から面白い指摘があった。

 武士道称揚の書として有名な「葉隠」には、痛烈な赤穂浪士批判がある。


 「葉隠」の怒りはこうだ。赤穂浪士は、君主の仇をとる行動を起こすのに1年以上もかけるとは何事か。武士たる者、事件を知ったら即座に行動を起こさなければならない。勝算や作戦などを優先して考える必要はない。


 原文をみてみる。

 浅野殿浪人夜討ちも泉岳寺にて腹切らぬが落度也。又、主を討たせて敵を討つこと延延なり。若し其中に吉良殿病死の時は残念千万也。


赤穂浪士の仇討も、泉岳寺で腹を切らなかったのが失敗だった。また、君主が死にその仇を討つまでが長すぎる。もし準備している間に相手が病死でもしたらどうするのか)


 こんなことも言っている。「上方の人間は小利口だから、世間から褒められるようにするのは上手であるけれども、長崎喧嘩のような無分別なことはできない」(奈良本辰也訳角川文庫『葉隠』)


 元々、武士は兵士であり、戦場のリアリズムに生きてきたはず。しかし、太平の世が続き、実際の戦闘行為とは無縁の「いくさ知らずの武士」だらけになると、むしろイデオロギーとしてはそれを補完するように「武力信仰」が高まる、という側面もあるのでは。