エジプト騒乱の前史とは

 エジプトの反ムバラクデモの勢いが加速している。報道を見る限り、カウントダウンが始まった印象が強い。報道は、現場一色になるだろう。その前に、頭を整理するために、ここ40年くらいのエジプト政治を簡単に振り返ってみる。

 1970年にアラブ民族主義者で社会主義を志向していたナセルが死去する。後継者のサダトは、73年の第四次中東戦争を有利に進め権力基盤を固めたうえで、左翼勢力を排除して親米政策に転換する。この延長で79年にイスラエルとの間で平和友好条約を締結した。この「左から右への大転換」までが第一幕だ。

 第二幕は、81年、イスラム原理主義者によるサダト暗殺で始まる。サダトの後継者ムバラクは、イスラエルとの国交は維持したまま、対ソ、対アラブ関係の修復に乗り出し、89年にはアラブ連盟に復帰してアラブの政治的盟主として頭角を現してくる。自由化政策の一方で民生にも関心を示し、80年代は政治指導者としてのムバラクの評価は高かった。


 第三幕は、イラククウェート侵攻による湾岸戦争以降の90年代。戦争後、サダム・フセイン復活を阻止するために、米国はムバラクアラブ諸国の取りまとめを期待する。ムバラクは、米国支援を背景に、国内的には地方自治体の長を選挙から政府の任命制に切り替えたり、反政府のムスリム同胞団への弾圧を強めるなど権威主義体制を強化していく。


 第四幕の開始は、2001年の米国での同時多発テロ。米国は、イスラム系反政府勢力への締め付けは、結果的にテロ活動を助長させるとの懸念を抱き、ムバラク民主化を促すようになる。この変化を受け、エジプト国内では反政府運動が活発化していった。05年の大統領選を控えた04年末に起きた民主化運動「キファーヤ運動」は、カイロの中心部で「ムバラク打倒」を叫んだ初の大衆デモだった。これに刺激されて、05初頭には反政府デモが大規模化し、エジプト政府は、大統領選挙を従来の国会が推薦する単一候補(つまりムバラク)への信任ではなく、複数候補の立候補を認める譲歩を行った。

 今回、「カイロでの大規模な反ムバラクデモは初めて」との報道を時々、目にするが、これは明らかに間違い。6年前の民主化デモが今回の前哨戦となっていることは重要だ。


 これで民主化の流れができたが、これに複雑な影を投げかけたのが、06年1月のパレスチナ自治議会選挙でのイスラム原理主義勢力ハマスの勝利だ。かつてアルジェリアでも前例があるが、中東では「自由で民主的選挙」を実施すると、「欧米的な自由と民主主義」に否定的なイスラム原理主義勢力が勝利するというジレンマがある。ハマス勝利後、米国のエジプト民主化支援は後退した印象がある。今回も騒動の当初は、「ムバラク政権は安定している」と鎮静化を望むコメントが目立った。ムバラク政権が崩壊して、エジプトで「民主的な選挙」が行われれば、はたして民主的政府が実現するかどうか、これがポスト・ムバラクの最大の課題だろう。


 新しい幕が上がろうとしている。その行方は…。


(オマケ)
 90年代半ばにカイロでは、古いビルが崩壊する事故が続いた。鉄筋がほとんど入っていない欠陥ビルが多かったからだ。その崩壊現場に行ったことがある。ゴミが散乱している古ぼけたビルの間の通路をぬけると、空間がぽっかり空いていた。倒壊後数日は経っていたが、瓦礫の山の下には、まだ住民が生き埋めになっていた。しかし、その正確な数はだれも知らなかった。翌日の地元紙には、倒壊現場の写真とピラミッドの写真が並べて掲載され、「われわれの素晴らしい建築技術はどこへ行ったのか」…笑えない見出しだった。

 交通信号がほとんどなく、大通りを渡るのは車の洪水を体を張って横切らなければならない。絶え間なくなるクラクション。街はほこりっぽく、お世辞にもきれいとはいいがたい。でも、活気があって、おじさん、おばさんも元気な街。新たな幕が、平和裏に上がりますように。