2・26事件と東條英機

今日は2月26日。昭和11年(1936年)、76年前のこの日、陸軍青年将校による反乱事件が起きた。この事件は、その後の日本の進路に大きな影響を与えた。東條英機の人生を変えたことも、そのひとつだった。

 引用文献は、「東條英機天皇の時代」(保阪正康ちくま文庫

 二・二六事件は、東條の人生を大きく変えた。軍人で終わるはずの彼の経歴は、この事件によって書き換えられたといっても過言ではない。

 (事件後、組閣された広田弘毅内閣で陸相になった)寺内は、粛軍を声明し、軍内改革に乗り出した。まず人事に手をつけ、不祥事件の責任という名目で七人の大将を現役から退かせた。ついで3月と10月の人事異動で総勢三千名におよぶ粛軍人事を行った。その結果、軍内に残ったのは、派閥抗争に関心を示さず、いかなる非合法活動にも加担も共鳴もしたことのない忠実な軍人だけとなった。人材の払底は歴然としてきた。

 当時、東條は51歳で、関東憲兵隊司令官として満州にいた。軍中央から追われ、予備役編入も近いといわれていた。

 二・二六事件後の一連の改革は、結果的に東條のような軍人を範とするものとなった。軍務に忠実、命令と服従をかたくなに守り正論を吐く軍人。妥協や調和を排し、直情さで事態に対する軍人。そういう軍人こそが生き残れる偏狭な集団と化した。

しかも東條には、もうひとつの僥倖があった。陸軍の序列でいえば、東條は数十番目に位置していたのが、粛軍人事によって一気に十番台に繰り上がってきたのである。

この年12月に陸軍中将に昇格、翌年3月には関東軍参謀長に任命された。参謀長は司令官の補佐役だが、東條は事実上、権限の一切を握った。

 そして、昭和13年5月、東條は陸軍次官として満州から帰国する。満州の新京駅には軍中枢に昇進する東條を送る人波がホームまであふれていたという。3年前の赴任の際、迎えたのはたった一人の参謀だけだったのに。

 この送別の人波は、<東條が作られた時代>から<東條がつくる時代>への転回点に立ち会った証人ともいえた。