「かぐや姫の物語」考

 高畑勲監督の「かぐや姫の物語」を観た。

 じんわりとした満足感あたりが、とりあえずの感想か。失望はしなかったが、いくつかナンクセを書きつけてみる。イチャモン癖は持病なのでお許しあれ。

・「社会通念への反発、自然回帰への志向」といったテーマに新鮮味はないが、絵には独特の風味があった。素人には確証が持てないが、素人の勘では、この映画はアニメの表現技術の世界でとんでもなく新しい何かが試されている気がする。

・ミカド(天皇)を、「女好きの軟弱オトコ」としてはっきりと描いていた。「見えざるタブー」への挑戦にも思えた。

かぐや姫は、もちろん「絶世の美女」と設定されているが、顔の比率がちょっと大きすぎて、少女的なかわいさはあったが、美しさが「絶世」とまでいかなかった。

・月からの迎えが、観音様のような仏像だったが、これにはちょっと違和感があった。


 スタジオジブリ発行の雑誌「熱風」12月号で、この映画を特集していた。同誌の記事からいくつか引用してみる。

(作家・三浦しをん

 かぐや姫、翁、捨丸をはじめ登場人物のだれもが、それぞれにずるさや欲を持っている、まさに地上の物語だ。高畑監督はファンタジーの姿を借りて、「現実」を描き出している。

 男性に求められる方向性が「勉強していい大学に行き、いい会社に入り、金持ちになっていい女と結婚して」と比較的一本道なのに対し、女性は「いい会社に入って高給を稼ぐ」方向と、「いい妻・母として生きる」方向の異なる方向性を同時に要求される。そして、女性は、二方向のうち、選ばなかった未来、ありえたかもしれないもう一人の自分の存在を意識しながら、今日を生きている。かぐや姫も同じように、都会の優美な暮らしと幼いころの田舎の初恋との間で揺れ動いている。

 「女性の生き方」が主要テーマとの指摘だが、なるほどね。ただ、「ありえたかも知れないもう一人の自分」が「今の自分」を常に背後から冷たくみている、という感覚は、女性だけでなく、男性にも広く当てはまると思う。

(作家・津島佑子

 ヤマト王権伊勢神宮で太陽神アマテラスを祀ってきたのに、そんなヤマトでなぜ月の物語がかくも愛され続けてきたのか。あるいは、王権のトップであるミカドや大臣たちをさんざん愚弄し、拒絶する少女の物語を、どうして人々は大いに喜んで受け入れてきたのだろうか。


 「伊勢物語」には、王室の未婚の少女と情を交わした男がミヤコから逃げる話があり、「源氏物語」も、ミカドの若い妃をミカドの別腹の息子が犯してしまう物語である。こうしたタブー破りが、どうやら日本古代の物語の定型だったらしい。


 農耕定住民族であるヤマト政権が支配した日本列島にも狩猟する移動集団が生き延びていた。彼らは自然の営みに従って生きようとし、祈りをささげながら動物や魚をとり、樹木から木の器を作り、竹細工も作る。移動の便宜のために月と星の運行に通じているがゆえに、暦も作れるし占いもできる。平安時代の半ばともなると、ヤマトとは異なりすぎる霊的性格を封じ込めるために、彼らは社会の底辺におとしめられていく。けれど物語の世界では、彼らが生き生きと再生され続ける。なぜなら、それは人間にとって、あまりに根源的で魅惑的な世界だから。

 たしか中上健次が「竹取の翁」は被差別の工芸職人だと書いていたのを記憶している。

 久石譲(この映画の音楽担当) 


 月からの使者が迎えに来るラストは、高畑さんが「ここはね、サンバかなんかでいこうと思ってるんですよ」とおっしゃったんですよ。つまり、月の人間は悩みがない、すべて楽しいんだ、と。そしたら、そこから来る人間たちが奏でる音楽はたのしくなければいけない。そうするとやはり歌い踊り、なんでもありの音楽だろう。

 そういう発想する人いないですよ。78歳ウソでしょう。とんでもなく若いというか、考え方がフレキシブル。自分を享楽主義者と言った意味の根底がそこにある。

 でも最初にそれを言われた時はのけぞりました。「ここでサンバですか?」と。だってここは泣けるシーンじゃないのかって。

 高畑さんからは、この映画を「喜びも悲しみもいろいろあっても、この世は生きる価値があるんだ」というところに持っていこうとする強い意志が伝わってきた。少なくとも僕にはそう思えた。

 もう一度、観たくなった。