「多崎つくる」と、決まり手は肩すかし

 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹文藝春秋)読了。

 話題の本を刊行から少し遅れて読んでみた。村上作品は、「ノルウェイの森」以来、新刊が出るたびに買っていた時期があった。しかし、「海辺のカフカ」あたりで「虚構の密度」の低下が気になり、それ以後、昔の作品を再読したことはあったが、新作を読まなくなった。そんなわけで、久々の新刊の読書だった。


 半日で読みあげた。しかし、かつて作品がもっていた吸引力がなく、国際的人気作家に失礼とは思うが、凡庸化、通俗化が進行している印象を受けた。


 物語に引っ張り込まれなかった理由を、思いつくままに列挙してみる。


(1)一方的に不可解な絶交宣言を突き付けたかつての仲好しグループの一人に主人公が会いにいく場面が、物語としては大きなヤマ場だったが、これが「決まり手、肩すかし」だった。
主人公の人生に大きな影を落とした絶交の真相とは何か。ドキドキしながら読み進めると、そのナゾとは、精神的に不安定になった、仲間の一人である美少女の狂言だった。「美少女の狂気」は、ある意味で、通俗物語の定番だ。これを物語の核にするのは、やはり弱い。


(2)主人公は、酸いも甘いも噛み分けた魅力的な年上の女性に魅かれるが、この女性から「ほんとに私を好きならば、過去のトラウマ(絶交事件)を清算してほしい」と言われ、今は絶縁状態にあるかつての親友たちに会いに行く。ところが、偶然、主人公は、この女性のデートを目撃して、女性に対して二股疑惑を抱く。女性を問い詰めると「3日後に回答する」と思わせぶりな返事が返ってきただけで、結局、結論がわからないまま物語は終わる。この年上の女性は、ミステリアスで多義的な解釈を可能にする魅力的な人物設定となっているが、これでは、「ただの身勝手な女じゃないか」と読み手は興ざめしてしまう。


(3)主人公は、自分を「からっぽの容器」のように感じているが、駅舎作りという少年時代の自分の夢を実現するため、家族、友人の反対を押し切って故郷を出て、東京の大学で勉学に励み、卒業後は鉄道会社に就職して夢を実現させる。気の効いた警句も言えれば、音楽の造詣も深い。外見も悪くはない。結局、少年時代の人間関係の傷を人生の最大のトラウマにして30代後半になってしまった、ある意味であめでたいニイチャンだ。主人公が抱える空洞が、本人が思っている程、深刻なものではない気がする。


 (4)性的な夢や話題が頻繁に取り上げられているが、なんだか精神分析の複数の症例を味付けして膨らませただけの印象がぬぐえない。
  最新号の「考える人」を立ち読みしていたら、先日の京大で行われた村上春樹の講演記録が掲載されていた。それによると、河合隼雄の出会う前は精神分析にはまったく関心がなかったが、河合と知り合いになり定期的に話し込むようになって大きな影響を受けた、との記述があった。河合経由での精神分析の影響が、作品に反映しているのかもしれない。その昔、大江健三郎山口昌男と親交を深めるにつれて、作品に文化人類学の臭気が漂ってきたことを思い出した。

 

 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のパラレルワールドの造形力はすばらしかったし、「神の子どもたちはみな踊る」も強く印象に残っている。同時代に読める幸運は感じているが、物語全体の力が加齢とともに落ちている気がするのは私だけだろうか。