論語、自己PR警告の背後には

 今回の論語読書会は、衛霊公第十五。

人の己を知らざるを病(うれ)へず

 「人が私を知らないことを嘆いてはならない」との警句は、論語の中では何度も繰り返される。たとえば、「人知らず、而して慍(いか)らず」(学而第一)、「人の己を知らざるを患(うれ)へず、人を知らざるを患う」(同)などなど。


 「おれ、すごくない」、「あたしを見て」…自己顕示欲の強い暑苦しい連中がひしめき合う現代ならともかく、論語が書かれたのは紀元前500年だ。マスコミもない古代社会では、「世間的に有名」といっても限定されていたはずだ。それでもこれだけ「有名にこだわるな」との再三の警告があるのは、有名になりたいとの名誉欲というより、「有能の士」として支配層に認知されれば士官の道が開けるという実利のゆえだろう。そこであの手この手の自己PRが過熱したのかもしれない。それにしても、同時期の日本はまだ縄文時代だったことを思えば、中国古代社会の成熟ぶり、おそるべし。


 この後、「子曰く、君子は世を没するまで名の称せられざるを疾(にく)む」が続く。「君子は死ぬまでに名が広まらないことを恥じる」という意味だが、そ直前の自己PR抑制の主張と合わせて考えると、儒教的には、「君子は控えめにしていても、その人徳で自然と世間の評判が高まってくるものである」ということになる。ちなみに子罕第九には、有名な「後生畏るべし」(後に生まれた者を侮るな)に続いて、「四十・五十にして聞こゆる無きは、斯れ亦畏るるに足らざるなり」(四十歳、五十歳になってもその名が世に聞こえないようでは大したことはない)との文章があり、苦笑した。


 講師曰く、「控えめにしながらも結果的に有名になるには、かなり高度な偽善者になる必要がありますね」。なるほど。

 子曰く、衆之を悪(にく)むも必ず察し、衆之を好むも必ず察す

(世の人が悪く言ったり良く言ったりしても、すぐに信じないで、よく考えろ)。

 儒教では「公」と「衆」を峻別する。公論と衆論は違うというわけだ。これは、ルソーの一般意思と全体意思の違いを想起させるとの指摘が受講生からあり。


 子曰く、吾嘗て終日食らわず、終夜寝ねず、以って思うも益なし。学ぶに如かざるなり

(一日中、食べもせず、一晩中寝もせずに、ひたすら考え続けたが無駄だった。学ぶことが大事だ)


 孔子は完全な聖人であるというのが論語の前提なので、これは「考えるだけで学ばない者」への警告のために孔子が書いたとするのが朱子の解釈だそうだ。

 「間主観的相互行為の積み重ねが普遍性に到達する」という儒教の教えは現代的である、とはある受講生の感想。

 
 子曰く、巧言は徳を乱る。小を忍ばざれば則ち大謀を乱る
 
 (巧みな弁舌は徳を乱すことがある。小事を忍ぶことができないと、大望を遂げることはできない)


 これに対する朱子の註に「小を忍ばずとは、婦人の仁の如くなり」とある。

 陽貨第十七には有名な「唯、女子と小人とは養い難し」の言あり。

 講師曰く、「論語全体として、道徳の主体としての女性は出てきませんね」。ふむ。