電気屋で辺見庸にあう

 土曜の午後、近くの家電屋をのぞく。客はまばら。「最新」の張り紙が貼られたテレビがずらりと並んでいる。大小の画面では、AKBが踊り、清盛がにらみ、芸人が笑っている。その一台に目がとまった。野球帽をかぶった初老の男が無表情で何かをしゃべっている。テレビ画面には似合わない映像だ。近寄って見ると、辺見庸だった。


 辺見の映像を映しているテレビの前に立ち、音量の目盛りを33にあげる。続いて、隣の平清盛君を黙らせた。「お買い得」を連呼する甲高い女の店内放送がじゃまだが、これで何とか辺見の声を聞きとれるようになった。

 「<3.11>を表現する言葉をマスメディアは何も持っていない」

 
「絶望することは、ひとつの能力である」


「大震災以前の資本がすべてを支配する社会に戻そうとする力が働きはじめている。しかし、それは不可能だ。もうもとへは戻れない」


「こぼれおちた言葉を拾い集めて、再生をはかるしかない。そのことを微力ながらやっていきたい」


「有名であれ、無名であれ、モノを書く人間に予感する力がなかった。この責任はモノを書く人間にある」

 辺見は同じペースで話していた。口述筆記すればそのまま文章になるような、まるで書くように語っていた。無表情だが、怒っていた。時に目に涙をためながら怒っていた。

 体調のせいか、時に少し前かがみになるが、画面からは精悍さが伝わってきた。病による弛緩は感じられなかった。


 津波の直後に、辺見はこう書いていた。

 
 資本の力にささえられて徒な繁栄を謳歌してきたわたしたちの日常は、ここでいったん崩壊せざるをえない。わたしたちは新しい命や価値をもとめてしばらく荒れ野をさまようだろう。時は、しかし、この広漠とした廃墟から、「新しい日常」と「新しい秩序」とを、じょじょにつくりだすことだろう。


 はっきりわかっていることがいくつかある。われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている。


 見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされた素裸の「個」が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかではなく、非常事態下で可能なのか。日常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。


「水の透視画法」(辺見庸共同通信社

 大震災とモラルの再生。辺見の問題提起は、先日見た「ヒミズ」のテーマにも通じる。

 去年の春、首都を走る満員の通勤電車。仕事の段取り、娘の誕生日プレゼント、歯医者の予約変更…いつもは、それぞれ私事を頭に浮かべている乗客たちだが、あの日々は、みんな同じこと、「自分たちの生き死に」を考えていた。深夜の電車で、乗客の携帯電話から一斉に地震予告を知らせる電子音が響いた時に車内に走った緊張の質は、日本人がすっかり忘れていたものだった。


 あの集団的不安は、かなり薄らいだ。しかし、通勤電車の床にところどころまだへばりついている。電車の床から、新たなモラルが芽吹く日が来るのだろうか。