吉村昭に開眼

このところ、読書の軸になっているのが、吉村昭だ。


 先月、本屋で立ち読みして、文章が抵抗なくスッスと入ってきたので、「私の文学漂流」(吉村昭ちくま文庫)を買った。吉村作品は「破獄」と雑誌のエッセイぐらいしか読んだことはない。「破獄」は面白かったが、作風がなんだか真面目すぎて自分とは縁が薄い作家だと思っていた。


 この「私の文学漂流」は、文学青年時代から40歳近くで太宰治賞を受賞しようやく作家として生活できるようになるまでの道程を描いた自伝的作品である。こうした作品につきものの自己陶酔もわざとらしい謙遜もなく、皮肉ではなく「まっとうな人だなあ」というのが読後感だった。こうした「まっとうさ」に自分がこんなに反応するとは思わなかった。年のせいか、「まっとうさ」と無縁の暮らしを続けているせいか。おそらくその両方かもしれない。


 吉村は、個人的なひらめきや苦悩に依存することなく、売れようが売れまいが、勤勉にコツコツ書き続けていく。まるで職人のようだ。しかし、生活のために兄の会社に入って経理を任されると、実務能力を発揮して経営を立て直すが、何事にも全力投球のため、小説が書けなくなる。その時、芥川賞受賞者の妻(津村節子、吉村本人は4回候補になったが全部落選)に「仕事をやめてほしい」といわれる。悩んだ末に「このままじゃ、書けなくなる」と会社を辞めて貧乏暮しに戻ってしまう。この人らしい。

 
 それにしても作家同士の夫婦とは、かなり関係維持に苦労しそうだ。

 夫の吉村は、「私の文学漂流」でこう書いている。

 常識的に考えてみても、作家同士の同じ家での同居など考えられない。孤独きわまりない作業である文学を志す他人同士が、同じ囲いの中で生活するなど到底できようはずがないのだ。だが、文学は、根本的には意識の所産であって生活ではないという私の信念が、辛うじて妻との同居を支えている。そして、妻も、意識してかどうかわからぬが、文学を生活の中に持ち込んで来てはいない。

 

 妻の津村節子は、2006年に79歳で亡くなった吉村の最後の日々を描いた「紅梅」(文藝春秋)を今夏出版した。さっそく読んでみる。

 互いの作品は読まないのが吉村・津村夫婦の原則だったというが、津村の文体はどこか夫の文体と似ている。感情を抑制した筆致で、淡々と事実描写を積み重ねていく。夫の病気を題材にした記録文学と言ってもよい。言うまでもないが、「淡々とした描写」は淡々とは書けない。


 この文体のおかげで、病状の進行がよくわかる。そして、病気を周囲に知らせずに最後まで書こうとする吉村の作家としての「まっとうさ」が、淡々とした筆致ゆえに迫ってくる。


 そして最後の時がくる。吉村は、末期がん患者として自宅療養の日々を送っていた。

 夕食後、育子(津村節子のこと)はベッドの傍らに蒲団を敷き始めた。

 その時、夫がいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。育子は仰天し、

「何するの」

と叫んだ。娘は管のつなぎ目を何とか繋いだ。


すると夫は、胸に埋め込んであるカテーテルポートを、ひきむしってしまった。育子には聞き取れなかったが、

「もう、死ぬ」

と言った、と娘が育子に告げた。


看護師が駆けつけて来た。

「何をなさるんです」

と言いながら、ガーゼと絆創膏をあててあったカーテルポートを、もとの位置にもどそうとした。

夫は、看護師の手を振り払った。

看護師は、名前を呼びながら応急処置をしようとする。しかし夫は、長く病んでいる人とは思えぬ力で、激しく抵抗した。とても、

手のつけようもない抵抗だった。


育子は夫の強い意志を感じた。延命治療を望んでいなかった夫の、ふりしぼった力の激しさに圧倒された。

必死になっている看護師に、育子は、

「もういいです」

と涙声で言った。娘も泣きながら、

「お母さん、もういいよね」

と言った。


看護師が手を引くと、夫は静かになった。

 まっとうな人は、最後は自分の手で幕を引いた。